ビビール・ビエン(「良く生きる」)〜パブロ・ソロン(元ボリビア国連大使)論文

パブロ・ソロン(元ボリビア国連大使)の論文「ビビール・ビエン」を紹介します。
著者のパブロ・ソロンは、現在はソロン財団(ボリビア)を主宰し、元ボリビア国連大使でした。ボリビアで種々の社会運動、先住民運動、人権団体、文化団体で活動してきました。ボリビア国連大使時代には、「水への権利」、「国際マザーアースデー」、「先住民族の権利」などの国連決議の採択に尽力されています。2010年のコチャバンバ会議(気候変動世界人民会議)の開催に尽力するなど、クライメート・ジャスティス(公正な気候変動対策を)の運動を牽引してきたことでも知られています。。2012~2015年 フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス(バンコク)代表。現在、ボリビアに戻って活動しています。
「ビビール・ビエン」とは、「良く生きる」という意味で、先住民族の生き方、宇宙観を表す概念と言われています。著者は、この論文で南米左派政権の10年間の真摯な総括と、開発主義に突っ走る現政権への苦渋と憤りに満ちた厳しい批判、「ビビール・ビエン(良く生きる)」の概念の意味と、その挫折と希望、オルタナティブをめぐる国際的な議論の紹介を試みています。訳出は英語版からATTAC関西の会員が行いました。英語の原文はこちらから。スペイン語の原文はこちらから。

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ビビール・ビエン(「良く生きる」)

パブロ・ソロン(元ボリビア国連大使)

「ビビール・ビエン」あるいは「ブエン・ビビール」(「よく生きる」)」は構築中の概念であって、すでにさまざまな時期を経てきている。ビビール・ビエンの定義は1つに定まっていないし、現在ではこの用語をめぐって論争がある。今ではビジネス関連の団体もビビール・ビエンについて語っているが、その理解はその提唱者たちが10年以上前に新自由主義との闘争の中で考えていたものとは非常に異なっている。ブエン・ビビールは議論と論争の場であり、そこでは唯一絶対の真実など存在しない。今日、ビビール・ビエンの名において多くの真実と無数の嘘が提出されている。

ビビール・ビエンあるいはブエン・ビビールの概念はすでにさまざまな時期を経てきている。30年前には南米でこの世界観について語っている者はほとんどいなかった。当時あったのはアイマラ語の「スマ・カマニャ」とケチュア語の「スマク・カウセイ」で、南米アンデス地方の先住民族の知識、慣習、組織の体系を中心とする一連の思想を表現するものだった。スマ・カマニャとスマク・カウセイはアンデス地方の共同体の生活の現実であり、人類学者やアイマラおよびケチュアの知識人による研究のテーマであった。20世紀のほぼ全体にわたってこの世界観は多くの左翼や労働者組織 - 特に都市部における ? には注目されなかった。

スマ・カマニャとスマク・カウセイは数世紀前に登場し、現在でもアンデス地方の共同体で継承されているが、近代化と開発主義の圧力の下でますます後退している。ラテンアメリカの他の先住民族の間でも同様の世界観や用語が存在する:グアラニーの「テコ・カビ」や「ニャンデレコ」、シュアルの「シール・ワラス」、マプチェの「キュメ・モンヘン」などである。

ビビール・ビエンあるいはブエン・ビビールの概念は20世紀末から21世紀初めにかけて登場し、理論化された。おそらく新自由主義とワシントン・コンセンサスの破滅的な影響がなければ、スマ・カマニャやスマク・カウセイからビビール・ビエンやブエン・ビビールが生まれることはなかっただろう。ソヴィエト社会主義の失敗、代替モデルの不在、自然の多くの領域の私有化と商品化の進行が、資本主義的近代によって無価値とされてきた先住民族の慣習や世界観への再評価のプロセスを鼓舞した。

この再評価のプロセスは理論と実践の両方の面で始まった。新自由主義的政策の導入による数万人の労働者の解雇は南米アンデス諸国の階級構造に変化を引き起こした。ボリビアでは約1世紀にわたってすべての社会階層の前衛だった鉱山労働者が退場させられた。代わりに先住民族と農民が前面に出るようになった。

先住民族の居住地を守る闘いは連帯を生み出しただけでなく、それらの居住地における自主管理の考え方を理解することへの関心を目覚めさせた。左翼や進歩的知識人の一部はベルリンの壁の崩壊後、自分たちのユートピアを失い、こうした先住民族の宇宙観から何を学べるかを検討しはじめた。こうしてビビール・ビエンやブエン・ビビールの概念が登場したのである。実際にはどちらの用語もスマ・カマニャやスマク・カウセイの不完全で不十分な翻訳であり、スマ・カマニャやスマク・カウセイにはもっと複合的な意味が含まれている - 豊饒な、心地よい、調和の取れた、崇高な、包容性のある生活、そして「生き方を知ること」などである。

ビビール・ビエンとブエン・ビビールは、ボリビアにおけるエボ・モラレス政権の登場 (2006年)とエクアドルにおけるラファエル・コレア政権の登場(2007)によって突然新しい段階が始まった時点では、まだ新しい概念として成熟していなかった。この用語はこの2つの国で新憲法に成文化され、さまざまな規範的および制度的改革の参照基準へと形を変えた。ビビール・ビエンは公的な議論の中心的な要素となった。これらの国の国家的開発計画にはこれらの用語が参照基準として組み込まれた。

これらの概念の憲法レベルにおける勝利に伴って、このオルタナティブと他の視点との相互補完性への関心が高まった。例えばトーマス・ベリーの「地球法理学」を組み込むことによって「マザーアース(母なる大地)の権利」や「自然の権利」などの新しい議論が発展した ? これらは当初のビビール・ビエンにはなかった考え方である。ビビール・ビエンのインパクトが非常に強かったので、他の代替システムのモデル、つまり脱成長、コモンズ(公共財)、エコ社会主義などの観点からもこの世界観に国際的な関心が集まった。

しかし、ビビール・ビエンの憲法レベルにおける勝利は論争の新しい段階の始まりでもあった。主要な論争はそれを2つの国の現実に具体的に導入していく方法をめぐるものだった。この新しい段階は大きな希望を伴っていたが、すぐに深刻な論争に変わっていった。ビビール・ビエンは本当に実践されているのだろうか? われわれはこの目的に向かっているのだろうか、それとも道がわからなくなっているのだろうか?

両国の政府が国内向けおよび国際的に宣言したビビール・ビエンあるいはブエン・ビビールの導入はこの概念の再定義を伴った。ビビール・ビエンとは現実には何を意味しているのか? それは資源開発主義に対する代替モデルなのか、それとも新たな形の、より人間的で、自然と親和的な開発なのか?

現在ボリビアでもエクアドルでもビビール・ビエンあるいはブエン・ビビールが何を意味するのかについて異なる解釈が存在している。単純化していえば、現在、公式バージョンと別のバージョンがあり、公式バージョンは世界銀行などの金融機関でも通用するが、別のバージョンは体制破壊的・反抗的である。年月を経るにつれて立場の違いは明確になっている。今日、この両国におけるビビール・ビエンの長年にわたる有力な提唱者たちはそれぞれの政府がブエン・ビビールを実践していないと考えており、人民の広範な層はそれらの概念が議論に止まっていると考えている。両国で代替モデルとしてのビビール・ビエンは危機にある。しかし、その真髄は存在しつづけており、依然として国内および国際的な思考プロセスに栄養を与えている。

ビビール・ビエンは1国あるいは1地域だけで本当に可能だろうか? ビビール・ビエンを実践していると称する政府の下での10年間を経て、何が間違っていたのか、何を教訓にするべきか? われわれはこの世界観の基礎に沿った実践に向けてどのように前進できるのだろうか?

ビビール・ビエンの将来がどのようなものになるかは、われわれにはわからない。おそらくは単なる気を逸らせるためのレトリックか、新しい形の持続可能な発展の概念化として終わるだろう。今日、エクアドルとボリビアの政府はこの概念を自分たちの政策に合わせて調整したいと考えており、自分たちの政策をビビール・ビエンの体制破壊的な方向に従わせようとは考えていない。彼らは自分たちのブエン・ビビールの解釈を正統化する試みにおいて、多くのメディアを味方にすることができ、さまざまな国際機関の共謀をあてにすることができる ? 後者はこの概念をウヤムヤにしてしまうためには、それを自分たちの言語に取り込んでしまうのが最良の戦略だと考えている。

このような論争、再検討、そして不確かな将来という背景の中で、この概念の実践に向かって進むためには、この概念の真髄を確認しておく必要がある。

中心的要素

ビビール・ビエンやブエン・ビビールには十戒のような戒律はない。この概念を絶対的な格言として定義しようとするいかなる試みも、構築途上にあるこの概念を窒息させるだろう。われわれにできることは、その真髄を概略的に語ることである。ブエン・ビビールは文化、社会、環境、経済に関わる処方箋を集めたものではなく、時間や空間についての哲学的な考察から始まって、人と自然の間の関係に関わる宇宙観に向かって進む複雑でダイナミックな混合体である。

本稿ではそのすべての面について取り上げているように見せかけるのではなく、この代替システムの理論的・実践的構成の中心となるかも知れない面に焦点を当てる。われわれの考えでは、ビビール・ビエンを他の代替モデル ? コモンズ、脱成長、エコフェミニズム、脱グローバル化、エコ社会主義など ? と比較した場合の強みは、次の要素にある:(1) 「全体」あるいは「パチャ」という考え方、(2) 多極性の中での共存、(3) 均衡の追求、(4) 多様な主体の相互補完性、(5) 脱植民地化

「全体」と「パチャ」

代替システムへの転換のプロセスは常に、「全体」についての理解が出発点となる。われわれが着手しようとする転換のプロセスはどのような全体性の中で進行するのか? われわれは根本的な変革を1つの国の中だけで進めることができるのか? われわれは経済、社会、制度の側面だけに焦点を当てることによって成功できるのだろうか? グローバル資本主義は変革対象の全体なのだろうか、それとももっと大きな全体の一部なのだろうか?

ビビール・ビエンにおいては全体は「パチャ」である。このアンデス地方の概念はしばしば、単に「大地」と翻訳されている。だからわれわれは「パチャママ」を「マザーアース」として語っている。しかし、パチャはもっと広い概念であり、空間と時間の分かちがたい一体性を含意している。パチャは常に運動している全体である。それは常に生成中の宇宙である。パチャは人間、動物、植物の世界だけでなく、太陽、月、星が住む天空の世界(「ハナク・パチャ」)、そして死者、霊が住む土の下の世界(「ウクフ・パチャ」)も含んでいる。ビビール・ビエンにおいてはこのすべてが相互につながっており、その全体が一つの一体性を成している。

この空間においては過去、現在、未来が共存し、ダイナミックに結び合っている。アンデスにおける時間観はニュートン理論に従っていない。後者においては時間は空間から独立した座標であり、その長さは誰から見ても同じである。それに対して、この宇宙観はわれわれにアインシュタインの有名な一節 - 「過去、現在、未来の区別は頑固に引き続いている幻想に過ぎない」 - を想起させる。パチャの概念の中では、過去は常に現在であり、未来によって再創造される。

ビビール・ビエンにおいては時間と空間は直線ではなく、循環している。直線的な成長や進歩という考え方はこれとは相容れない。時間は螺旋状に進む。未来は過去につながっている。いかなる前進にも逆戻りがあり、いかなる逆戻りの中にも前進がある。だから、アイマラの人たちが言うように、前へ進むには過去に目を向けなければならない。

この螺旋形の時間観は「発展」、つまり常により高い所を目指して進み、常により良いものを求めるという考え方の基本そのものを疑問視する。この上昇志向はビビール・ビエンにおいては虚構である。いかなる前進にも後戻りがあり、何ごとも永遠ではなく、すべてのものは変化し、そこで過去・現在・未来が再び出会う。

パチャにおいては生き物と無生物の区別はない。すべてのものが生命を持っている。生命は全体を構成するすべての部分の間の関係によってのみ説明できる。生き物か単なる物体かという二分法はない。同様に、人間と自然の分離もない。すべてが自然の一部であり、全体性としてのパチャは生命を持っている。

ジョセフ・エスターマン(Josef Estermann)によると、パチャは「近代ヨーロッパ哲学、特にデカルトと彼の信奉者が述べているような、自己を組織し、単に機械的法則によって運動する機械あるいは巨大な機構ではない。パチャはすべての部分が相互に関係し合い、常に相互依存と交換を保っている生きた有機体である。したがってすべての『発展』の基本原理は、人間あるいは動植物だけでなくパチャ全体の生命(「カウセイ」、「カマニャ」、「ジャカニャ」)の全体性に関わるものである。」1

人間の目指すものは自然を支配することではなく、自然の世話をする ? 自分に生命を与えた母を世話するように ? ことである。これが「マザーアース」という表現の意味である。社会は人間との関係だけでは理解できない。それは自然、そして全体を中心に置くコミュニティーである。われわれはパチャのコミュニティーであり、永久的に循環的な変化のプロセスを続ける不可分の全体のコミュニティーである。

「スマ・カマニャ」や「スマク・カウセイ」では人間が中心ではなくパチャが中心である。全体に対する認識と関与がビビール・ビエンの核心である。アンデスの宇宙観は「全体性」の原理をその存在の中心に据えている。

ビビール・ビエンはわれわれが生命のすべての面に関心を向けなければならないことを意味している。物質的生活は1つの面に過ぎず、それはモノや対象の蓄積に限定することはできない。われわれは良く食べ、良く踊り、良く眠り、良く飲み、自分の信仰を実践し、コミュニティーのために働き、自然の世話をし、年長者を敬い、われわれの周りのあらゆるものを崇敬することを学ばなければならないし、どのように死ぬかも学ばなければならない。なぜなら、死は生命の循環の不可分の一部だからである。アイマラの思考方法の中では西洋で理解されているような死 ? 肉体が消滅して地獄か天国へ行く - は存在しない。そこでは死は生命のもう1つの瞬間にほかならない。なぜなら死者は山の中か、湖や川の深い所で再び生きるからである。2

この意味で、全体は霊的側面を持っており、そこでは自己、コミュニティー、自然という概念は空間と時間を基盤としており、その中に循環的に結び付けられている。全体に沿って生きるということは感情、関心、自分についての理解、他の者に対する共感を持って生きることを意味する。

この宇宙観は一連の具体的な意味を持っている。好ましい政策というものは、どれかの部分だけでなく全体を勘案したものである。1つの部分(たとえば人間、「北」の諸国、エリート、物質的蓄積)の関心だけに従って行動することは不可避的に全体の中での不均衡をもたらす。いかなる政策においても、すべての部分の多様な側面と相互関係を理解しようとしなければならない。

多極性の中での共存

ビビール・ビエンの考え方の中では、すべてのものには二重性がある。なぜならすべてのものは矛盾する要素の組み合わせを含んでいるからである。純粋な善は存在しない。善と悪は常に共存している。すべてのものは肯定的であり、同時に否定的である。個人とコミュニティーは同じユニットの2つの極である。個人が人であるのは彼または彼女が自分のコミュニティーの共通の善のために働く限りにおいてである。コミュニティーがなければ個人は存在せず、個人がなければコミュニティーは存在しない。人はパートナーがいなければ厳密な意味での人ではない。権威者の選出は2人単位で - 一対の男と女として ? 行われる。個人とコミュニティーの2極性は人間と自然の2極性に包含されている。コミュニティーは人間だけのコミュニティーではなく、人間以外のものも含んでいる。

ビビール・ビエンはこの二重性の中で共生することを学ぶ。問題は「存在すること」ではなく、全体の中の自分と対立する部分と「相互に関係し合う方法を学ぶこと」である。存在は自明のことではなく、関係に関わる概念である。

アンデスのコミュニティーでは個人の私有財産と共同体の財産が共存している。コミュニティーの成員の間で差異や緊張が存在する。そのような緊張を管理する上で、ある種の再分配を進めるためにさまざまな文化的慣行が行われる。たとえば最も裕福な者がコミュニティー全体の祝祭の費用を出す、あるいはそのほかの、全員に恩恵がある行事やサービスに責任を負う。

ほかにもコミュニティー内での協力のさまざまな慣習がある。ミンカでは、全員がコミュニティーのための集団的な労働に参加する。アイニでは種蒔き、収穫あるいはそのほかの仕事の際に、コミュニティーの成員同士が助け合っている。アンデスのコミュニティーにおいて、人生の主要な出来事は個人やその家族だけでなく、コミュニティー全体で共有される。子どもが生まれた時にはコミュニティー全体がそれを祝う。結婚は2人の個人の結び付きだけではなく、2つの家族あるいは2つのコミュニティーの結び付きでもある。

世界の先住民族のコミュニティーは非常に多様である。地域によっても異なるし、国によっても異なる。しかし、そのような違いにもかかわらず、コミュニティーへの責任、コミュニティーへの帰属という感覚は共通である。最も厳しい処罰はコミュニティーからの追放である。それは死よりも過酷である。なぜならそれは自分の帰属、自分の本質、自分のアイデンティティーを失うことだからである。この先住民族の慣習と比較するなら、西洋社会は個人、個人の成功、個人の権利、そして何よりも法律や機関を通じて個人の私有財産を保護することに焦点を当てる傾向がある。

ビビール・ビエンは平等主義ではない。それは幻想である。なぜなら不平等と格差は常に存在するからである。重要なことはそれを取り除くことではなく、それと共存し、不平等や格差がより深刻になり、全体を脅かすほどに二極化するのを防ぐことである。この考え方の枠組みの中では、基本的なことはコミュニティーの中で生き、全体の多極性を尊重することを学習する、あるいは再学習することである。

ビビール・ビエンは「幸福」とは何かを再定義しようという呼びかけである。豊かであるか貧しいかというのは1つの条件であるし、人間的であるというのは1つの不可欠の要素である。ビビール・ビエンは「幸福であること」(人の状態)よりも「よく生きる」(人の本質)に関わることである。

均衡の追求

ビビール・ビエンにおいては、全体を構成する種々の要素の間の均衡を追求することが目標となる。言い換えれば人間の間だけでなく人間と自然、物質と霊、知識と知恵、多様な文化の間、そして異なるアイデンティティーや異なる現実の間の調和である。

ビビール・ビエンは単により民主主義的な ? 人間中心主義ではない、全体的、あるいは人間的な - 発展の1つのバージョンではない。それは永久的な成長とは対立し、均衡を追求する。あらゆる均衡は新しい矛盾と格差をもたらし、再び均衡を回復するための新しい行動が必要になる。それは運動の、そして空間・時間の中での循環的な変化の基本的な源となる。人間とマザーアースの間の調和の追求は理想的状態の追求ではなく、全体の存在理由である。

この均衡は資本主義が継続的な成長を通じて到達すると約束している安定と同じものではない。安定というものは永久的な成長と同様に幻想である。制限のない成長は遅かれ早かれ必ずパチャに深刻な混乱を作り出す。われわれが現在、地球上で見ている通りである。均衡は常に動的である。目標は矛盾のない完全な均衡に到達することではない - そんなものは存在しない。すべてのものは循環的に運動するということが到達点であり、同時に新しい不均衡、そして、より新しく、より複合的な矛盾と相互補完性の出発点になる。

ビビール・ビエンは楽園を実現することではなく、すべての者の幸福と、全体の動的で常に変化する均衡を追求することを目指している。全体を多くの構成要素において、また、その生成過程において理解することによってのみ、新しい均衡の追求と、ビエン・ビビールに従った生き方に寄与することが可能になる。

ジョセフ・エスターマンによると、アンデスの人々の考え方では人間は所有者でも生産者でもなく、「世話をする者」(アラリワ)、「耕す者」、「助ける者」である。厳密な意味で生産に関わっている唯一の力はマザーアースであり、パチャママとそのさまざまな要素 ? 水、鉱物、炭化水素およびエネルギーなど - である。人間は「生産」しないし「創造」もしない。パチャママが与えるものを耕し育てるだけである。3 人間はマザーアースに生を与えるのを手伝うだけである。4 人間の役割は橋(チャカナ)になること、均衡の追求に寄与する仲介者になって、自然がわれわれに与えた知恵を耕すことである。挑戦課題は「もっと〜になる」あるいは「もっと〜を持つ」ことではなく、常に地球のコミュニティーのさまざまな部分の間の均衡を追求しつづけることである。

このビビール・ビエンの基本要素は重要な意味がある。なぜなら、それが支配的な成長という枠組みに挑戦するだけではなく、均衡を追求する中で具体的なオルタナティブを提起しているからである。社会が活気に満ちるのはその成長によってではなく、人と人の間、および人と自然の間の均衡に寄与することによってである。この過程で、人間が「生産者」、「征服者」、そして自然を「作り変える者」であるという考え方を克服し、自然の「世話をする者」、「耕す者」、「仲介者」であるという考え方に置き換えることが非常に重要である。

多様な主体の相互補完性

全体の中に存在するさまざまな対立物の間の均衡は相互補完性によってのみ実現される。一方を抹消ことによってではなく、補完することによってである。相互補完性とは差異を全体の一部であると考えることである。課題は、このような異なる部分 ? その中には敵対的なものもある ? の間でどのように相互を補完し、全体性を完成させることができるかである。差異と固有性は自然および生命の一部である。われわれは皆、決して同じではないし、等しくもない。われわれがしなければならないことは、多様性を尊重し、経験、知識、そして生態系を明確に表現する方法を見つけることである。

資本主義は非常に異なる力学の下で作動している。資本の論理によると、非常に重要なことは効率を上げるための競争である。競争を抑制または制限するものは何であれ否定される。競争の下で各産業あるいは各国は自分たちが勝てそうな分野に特化することができ、最後にはそれぞれがいずれかの分野でより効率的になり、技術革新と生産性向上が促進されるというわけである。

相互保安性の観点からは、競争は否定的なものとみなされる。なぜなら、だれかが勝ち、それ以外のものが負けることによって全体性のバランスが失われるからである。相互補完性は諸力の組み合わせによる最適化を求める。他の者と協力すればするほど、それぞれの者にとっても全体にとっても弾力性が増す。相互補完性は対立物の間での中立性ではなく、多様性を提供することで全体の均衡に寄与できる可能性を認識することである。

具体的には、これは、対等でないグループ、産業、国に対して一律のルールを課すことによって効率向上を追求するのではなく、最も不利な条件の下にある者に有利な非対称的なルールを導入することによって、すべての者が向上できるようにしなければならないことを意味する。ビビール・ビエンは多様なものの出会いである。「生き方を知る」とは多文化主義を実践することであり、傲慢さや偏見なしに差異を認め、そこから学ぶということである。

多様性を受け入れるということは、この世界にはアンデスにおけるビエン・ビビールのほかに、他のバージョンのビエン・ビビールもあることを意味する。それらのビエン・ビビールは自分たちのアイデンティティーを求めているさまざまな集団の知恵と知識と慣習の中に生きている。ビビール・ビエンは複数形の概念 ? 人間における多文化主義の承認、および自然における多様な生態系の存在の両方の意味において - である。5ビビール・ビエンは異文化間の出会いを呼びかけている。唯一のオルタナティブなど存在しない。多くのオルタナティブが存在し、それぞれ補完し合って体系的なオルタナティブを構成するのである。

ビビール・ビエンはユートピア的な過去への後戻りではなく、人間の歴史の中には、今日のシステム全体の危機を克服するのに貢献できる異なる文化的、経済的、社会的組織の形態が存在したし、現在も存在し、将来にも現れ、相互に補完するだろうという認識である。

脱植民地化

ビビール・ビエンの考え方の中には脱植民地化のための継続的な闘争がある。500年前のスペインによる征服は新しいサイクルを開始した。この植民地化は19世紀における独立と共和国の成立の過程によって終わったのではなく、新しい支配の形態と構造の下で続いている。

脱植民地化とは依然として支配的である政治、経済、社会、文化、精神のシステムを解体することである。脱植民地化は一度で完結するのではなく長期的な過程である。外国の権力からの独立を達成してもその経済的ヘゲモニーに一層従属するようになる場合もある。一定の経済的主権を勝ち取っても文化的に支配されたままである場合もある。国の新しい憲法によって文化的アイデンティティーを全面的に認められても、依然として西洋の消費主義的な考え方の囚人であり続ける場合もある。これはおそらく脱植民地化の過程の最も難しい部分である。つまり、偽りの、異質な概念に囚われてしまった心と魂を解放することである。

ビエン・ビビールを築くためには、われわれの土地とわれわれの生き方を脱植民地化しなければならない。土地の脱植民地化とはあらゆるレベルの自己管理と自己決定を意味する。生き方の脱植民地化はより複合的であり、われわれがパチャと再び出会うことを妨げるような信仰や価値の克服を含む。

この文脈の中で、ビビール・ビエンの最初の一歩は自分の目で見て、自分で考え、自分の夢を見ることである。1つの重要な出発点はわれわれのルーツ、アイデンティティー、歴史、そしてわれわれの尊厳に出会うことである。脱植民地化するということは、われわれの生命を取り戻し、地平線を取り戻すということである。脱植民地化は過去に戻ることではなく、過去を現在の中に位置付け、記憶を歴史の主体に変えるということである。ラファエル・バウチスタ(Rafael Bautista)が言うように、「近代物理学における時間の進行の直線性はもはやわれわれの役に立たない。だからわれわれは変革の一部として、思考における革命を必要としている。過去とは後に遺されたものではなく、未来はこれから来るものではない。われわれが過去について意識的であればあるほど、未来を創り出す可能性が大きくなる。歴史の本当の主体は過去としての過去ではなく、現在としての過去である。なぜなら現在は常に未来と過去を必要とするからである。」6

ビビール・ビエンは未来を自分たちのものにするために過去を取り戻そうという呼びかけであり、無視されてきたコミュニティーとマザーアースの声を増幅するものである。7

脱植民地化は不公正な既存秩序を拒否し、われわれの洞察力を回復する ? われわれの想像力を制約する植民地的概念の罠に嵌らないように - ことを意味する。脱植民地化とは、他者(人間および人間以外のもの)に対する不公正に抗議し、人間と自然世界の間の偽りの境界を打ち壊し、自分の考えを大きな声で述べ、他者と違うことへの恐れを克服し、支配的なシステムや思考方法によって妨げられてきたダイナミックで矛盾を含んだ均衡を回復することである。

憲法への明記と実践

ある宇宙観を制度化・形式化しようとする試みは常にその宇宙観の解体を伴う。一部が華々しく取り上げられ、他の部分が脇に退けられる。いくつかの意味が突出し、他の意味が失われる。最後には切り刻まれた亡骸が残り、それは広範な聴衆に届くかもしれないが不完全なものである。

これがエボ・モラレスとラファエル・コレアの政権の下でビビール・ビエンとブエン・ビビールについて起こったことである。先住民族の宇宙観が初めて、何世紀にも及ぶ排除の後に、この2つの国で政治的課題の中心的な要素として認識され、組み込まれた。スマ・カマニャとスマク・カウセイが公的な議論の中心的な論点となった。すべてのことがその名においてなされるようになった。

ビビール・ビエンとブエン・ビビールは2008年と2009年に両方の国で ? 言葉は違うが ? 新憲法に明記された。エクアドルの場合、新憲法に「スマク・カウセイ」8という用語が5回、「ブエン・ビビール」が23回登場し、そのための章(「ビエン・ビビールの権利」)や表題(「ブエン・ビビールの規則」)まで設けられている。

しかし、この概念がどのように発展させられているかを詳しく検討すると、それが次のような文脈で組み込まれていることがわかる。

1. 到達するべき理想:「良き生き方、スマク・カウセイを実現するために、多様性と自然との調和の中での公衆の共存の新しい形式」

2. 生き方:「国家は国民の良き生き方を保証する生産様式を促進しなければならない・・・」

3. 一連の権利:水と食料、健康的な環境、情報と通信、文化と科学、教育、居住地と住居、健康、労働、社会保障など。

4. 発展および生産性に何が付随するのかに関する考え方:
・ 「発展の構造は、良き生き方(スマク・カウセイ)の実現を支える経済、政治、社会文化および環境システムの組織された、持続可能で、動的な集合体である。
・ 「良き生き方へのアクセスを可能にするための・・・国家的発展の計画」。
・ 「全国的な生産を促進し、効率と生産性を高め、生活の質を改善し、良き生き方の実現に寄与する技術や革新の発展」

ボリビア多民族国憲法の場合、「ビビール・ビエン」が7回、「スマ・カマニャ」が1回言及されている。エクアドル・バージョンのブエン・ビビールの権利と違って、ボリビア憲法の条文はそれを一連の倫理・モラル的原理として示している:「国家は以下のことを多民族社会の倫理的、モラル的原理として採用し、促進する:「アマ・キラ、アマ・ジュジャ、アマ・スワ(怠けてはならない、嘘をついてはならない、盗んではならない)、スマ・カマニャ(良く生きる)、ニャンデレコ(調和の中で生きる)、テコ・カビ(良き生活)、イビ・マラエイ(悪のない土地)、カパジ・ニャン(高潔な道/生活)」

同様に、ボリビアの新憲法でもそれは到達すべき理想や生き方として示されており、「自然資源の産業化の生産的な発展」と結び付けられている。

全体的に言えば、エクアドル・バージョンでは権利についての考え方により大きな強調が置かれているのに対して、ボリビア・バージョンは倫理・モラル的概念により近い。しかしながらどちらの憲法においても、テキスト全体にわたって、これらの概念は支配的な開発主義・生産力主義の考え方と共存しており、それと結合され、その脈絡で明文化されている。

これらの憲法の重要性と、その起草と承認に関わる大きな困難を否定するわけではないが、憲法に組み込まれることによってビビール・ビエン、ブエン・ビビール、スマ・カマニャはその内容の多くを失ったということは明らかである。それらはいわゆる「複合経済」の下で存続している資本主義的開発主義モデルの転換点になるのではなく、アンデスの先住民族の承認を象徴する用語へと変質した。

しかし、それが憲法、法律、開発計画に正式に組み込まれたこと以上に、この10年間にこの宇宙観に対して何が起こったかを検討しておくことが非常に重要である。それはどのように実践されたのか? それはこの2つの国における生活のさまざまな側面にどの程度具体的に表現されているのか?

これらの問いに答えるために、経済や自然との関係、そしてコミュニティーおよび社会団体 ? 最終的には常に、変化のプロセスの主要な推進力になる - の強化との関係で、何が起こってきたかを見ておこう。

ポピュリスト的資源開発主義

両政府とも、さまざまな困難や問題にも関わらずわれわれはビビール・ビエンの道を進んでいると主張している。彼らはその証拠としてGDPの成長や、貧困削減、外貨準備の増加、公共投資の増加、道路・医療・教育・通信のインフラの拡張などの多くの指標についての統計を示している。

それらの数字は本当であり、いくつかは非常に重要な数字である。GDPはエクアドルで年4.2%(平均)、ボリビアで年5.0%(平均)成長し、エクアドルでは貧困率が人口の11%に低下、ボリビアでは極貧困率が16%まで低下した。これは主要には公共投資の増加 ? エクアドルではGDPの4.2%から15.6%へ、ボリビアでは同14.3%から19.3%へ - によるものである。この増加は種々の社会的プログラムや給付金 ? 世界銀行の言い方では「条件的現金移転」 - に向けられ、両国ともジニ係数で表される所得格差は縮小した。

過去10年間におけるこうした成果は輸出される原料の価格上昇と、一部では多国籍企業との間の契約の再交渉によってもたらされた。ボリビアでは石油・ガスの国有化は外国企業の国有化ではなく、利益配分の再交渉を意味した。天然ガスに関わる収益や回収可能な原価から多国籍企業が得る利益のシェアは05年の43%から13年にはわずか22%に減少した。その結果、ボリビア政府の収益は8倍になった ? 05年の6億7300万ドルから13年の54億5900万ドルへ。このような国家の収入増が公共投資の大幅な拡大や給付金の支給、インフラ開発、基本的サービスの拡充、外貨準備の増加、およびその他の政策を可能にした。

これらの国のさまざまなセクターの人々にとって生活条件が改善されたことは間違いないし、そのことがこれらの政府が依然として大衆的支持を得ている理由となっている。しかし、われわれは本当にビエン・ビビールに向かっているのだろうか?

現在、中国経済の失速の結果として石油・ガスや原材料の価格が低落しており、両国は加速度的に経済危機に向かいつつある。原材料の輸出による歳入が減り始めており、外貨準備が減少し、対外債務が増加しつつある。以前に国有化された工場 ? たとえばボリビアのエナテックス ? が閉鎖された。コレア大統領はこれまで拒否してきたEUとの貿易協定を締結しようとしている。ボリビアはウォール街で国債10億ドルを売りに出し、エボ・モラレスは外国からの投資を誘致するためにニューヨークを訪問した。

われわれはなぜこんな状態に陥ったのだろうか? 単に外部的要因のためなのか、それともビビール・ビエンに反していたためなのか?

エクアドルもボリビアも、ベネズエラ、ブラジル、アルゼンチンと同様、この10年間、原料輸出による潤沢な資金に幻惑されていた。ボリビアもエクアドルも、公式な議論では、中心的な目標が原材料輸出への依存を減らし、単一商品輸出国を脱し、経済を多様化し、工業化を促進し、生産性を向上させ、生産物に対する付加価値を高めることであると自己確認しているが、今日これらの国が以前よりも原材料輸出への依存度を高めていることは否定しようがない。

経済の多様化は起こらなかった。なぜなら資源採掘と原材料輸出に賭ける方が即効的には利益が大きかったからである。進歩的政府は公共のインフラや社会的プログラムを通じて即効的な成果を示すことを望み、そのための財源を確保する手っ取り早い方法は過去にしばしば批判されてきたやり方を続けることだった。反資本主義的で進歩的な性格を持つこともあったビビール・ビエンの議論を用いながら、彼らは輸出依存の強化を促し、同時にいくつかの所得の再分配の仕組みを導入したが、それは資本主義的蓄積のシステムの本質を変えるものではなかった。

言っていることとは裏腹に、多国籍企業と国内のオリガーキー(寡頭支配階級)は概ね自分たちを富裕化させ続け、この資源採掘主義的ポピュリスト・モデルから利益を得た。エクアドルの場合、「主な経済活動は少数の企業に集中している。ソフトドリンク市場の81%は1つの企業の支配下にある。同様に、1つの企業が食肉市場の62%を支配しており、5つの砂糖工場(3人の所有者)が砂糖市場の91%を支配している。2つの企業が調理用油の市場の92%を支配し、2つの企業が衛生用品市場の76%を支配している。まだまだある・・・。上位100社の利益は2010年と2011年の比較で12%増えており、今では36億ドルという驚くべき額に到達している。注目すべきこととして、2007年から2011までの5年間の大企業の利益はその前の5年間、つまり新自由主義の時期を50%上回っている。」9

ボリビアでも状況は似ている。銀行・金融機関の利益は2006年の8000万ドルから2014年には2億8300万ドルに増えた。現在、ペトロブラスとレプソルの2つの多国籍企業が天然ガスの生産量の75%を扱っている。財務相自身が、ボリビア国内に投資するよう民間企業の「良心に訴える」発言の中で、彼らの利益は2005年の9億ドルから2014年には40億ドルに増えたことを指摘している。

ボリビアでは2006年以前の地主の大部分は新政権の政策の影響を受けていない。先住民族や農民にかなり有利な土地所有権の割り当てが行われたが、大地主の権力を解体するようないかなる試みも行われなかった。遺伝子組み換え大豆は2005年には輸出大豆の21%にすぎなかったが、2012年には92%を占めるようになった。

現実には「われわれはボスではなくパートナーを求めている」というスローガンは多民族国家と旧寡頭支配者階級との新しい同盟関係を明確化するために使われた。政府の基本的な戦略は反政府勢力の経済的代表と協定を結び、一方で彼らの政治的リーダーを迫害するというものだった。「経済ではニンジン、政治ではムチ」のような政策によって、当初は政府に反対していたブルジョワジーの多くの部分がその後政府を支持するようになった。

今では飼い殺しの時代は終わり、これらの政府と同盟を結んでいた新旧の金持ちたちは政府から距離を取り始め、自分たちの政治的対案を準備している。歳入内訳に占める輸出の割合が縮小し、最も影響力がある人たちが国家や他の人々の犠牲の上で自分たちの利益を最大限に保全しようとしている。その結果、ポスト・ポピュリストの新自由主義が復活している。この復活は「進歩的政府」の外側だけでなく、内側からも起こっている。今では政府自身が効率と新自由主義的な収益性という基準を採用し、工場を閉鎖し、社会給付の増額を制限し始めている ? この10年間に自らを富裕化させてきた経済的支配勢力を規制するのではなく。

経済危機は進歩的政府の人気を掘り崩しつつあり、従来は政府の同盟者であった右翼が、ブラジルで起こったクーデターのような行動を通じて、外からも内側からも政府を破壊しようとしている。われわれは進歩的政権と、ビビール・ビエンの名の下で進められてきたポピュリスト的な資源採掘主義のサイクルの終わりを目撃している。

自然の蹂躙

ビビール・ビエンの基本条件の中の最もよく知られているものの1つは、人間の間、そして人間と自然の間の調和である。ボリビアとエクアドルの政府は当初、さまざまな議論の中でマザーアースを強調したことで評価を得た。2008年のエクアドル憲法は自然の権利を認めた。ボリビアはそれに続いて、2009年に国連に国際マザーアース・デーを承認させ、2010年には国会でマザーアースの権利に関する法律を採択した。

エクアドルにおけるヤスニITTイニシアチブなどの具体的提案を見れば、すべてのことが自然との関係の変革に向かっているように思えた。ヤスニITTイニシアチブにおいてはコレア大統領は豊かな生態系で知られるヤスニ国立公園内の1つの区域を、国際社会からの経済的補償を条件に、石油採掘から守ることを提案した。具体的にはエクアドルは先進国が年3億5000万ドルを支払うことを条件にエクアドルは8億5600万バレル相当の石油を埋蔵したままにしておくという提案である。これは1つの国家が自然を保全し、温室効果ガスの排出を減らすために資源採掘主義と決別することを提案した最初の事例となった。

しかし、エクアドルの提案は、想定されていた経済的補償を得られなかった。2013年にコレア大統領はヤスニITTイニシアチブを終結することを宣言し、当該地区での石油採掘を始めると発表した ? この問題についての市民社会との協議すら拒否した。

ボリビアも同様に、当初は重要な約束をした。新憲法の第255条は「遺伝子組み換え作物(GMO)の輸入、生産、商品化の禁止」を規定している。しかし、2011年に国会は「共同体的農業生産革命」に関する法律144号を採択した。この法律の第15条はGMOの禁止を「GMOの登録とトラベル表示の要件」に置き換えた。つまり「直接または間接的に人間による消費を意図している生産物で、GMOを含むまたはGMOに由来するものはすべて、適切に識別し、そのように表示するものとする」。この法律が採択されてから5年間にGMO生産物のラベル表示は実施されておらず、GMO大豆の生産は急激に増加している。

同様に、国立公園および保護地区の保全についても問題が起こっている。政府はそのような地区における石油やガスの探査と採掘の基準および具体的なプロジェクトを承認し、また、チプニス国立公園を通過する高速道路の建設を試みた ? この建設はこの地域の先住民族や他の住民の反対によって中断されている。

森林伐採は毎年15万〜25万ヘクタールの自然林に影響を及ぼしており、特にアグリビジネス、牧畜業、および不動産投機企業に利益をもたらしている。政府は2020年までに違法な森林伐採を一掃すると約束しているだけであり、「持続可能な開発目標(SDGs)」の「目標15」で勧告されている通り現年度に自然林の伐採を中止するという誓約を行っていない。

多くの鉱山開発、水力発電、石油開発、インフラ・プロジェクトが実質的な環境影響調査なしに認可され、実施されている。政府は原子力エネルギー開発のためのプロジェクトさえ採用した ? 憲法とマザーアークの権利に関する法にそれを禁止する条項があるにもかかわらずである。

どちらの国でも、言説と現実、法律と実践の間に巨大な分裂がある。この10年間にボリビアでマザーアースの権利が自然の採掘、汚染、略奪を打ち負かした1つの例も挙げることができない。法律は書類の上では存続しているが、マザーアースのためのオンブズマン制度の確立などの規定が実施されたことはない。ラファエル・プエンテ(Rafael Puente)が言うように、「結果は次のようになっていると思われる。われわれはすべての先進国が全世界にもたらしたマザーアースの蹂躙を非難するが、われわれ自身のためには、われわれが最小限のレベルの発展に到達するまでマザーアースを蹂躙する必要性を留保している」10

エドゥアルド・グディナスは進歩的政府が「プラスチックを使わないようにしようとか、電球を変えようというキャンペーンなどの方策を最も心地よく感じているが、投資家や輸出企業に対する環境規制には抵抗する」と指摘している。彼は、結論として「カウディージョ(親分)たちは環境保護は贅沢であり、最も裕福な者たちだけに許されるものであり、したがってラテンアメリカには貧困が克服されるまでは適用されないと考えている」と述べている。11

コミュニティーと社会団体の弱体化

ビビール・ビエンの真髄は、コミュニティーの強化、競争ではなく相互補完性の促進、無制限の成長ではなく均衡の追求である。これらの側面においてわれわれはどのように前進してきたのか? 先住民族のコミュニティーや社会団体は現在、これまでより強くなったのか? これまでより相互補完性が強まったのか? 格差や階層秩序や特権は少なくなったのか? 社会団体の創造性はこれまでより大きくなったのか? それらの団体がイニシアチブを発揮し、空想的なオルタナティブを再創造する能力は高まったのか?

ボリビアでは変革の過程は最初から強力な先住民団体や社会団体に依拠していたが、現在のボリビアを見ると、一般的に、社会運動と先住民共同体はこの10年間に弱体化してきた。

ここで起こったことはある種のパラドックスである。先住民共同体と社会団体は一連の物質的なモノ、インフラ、信用、条件的現金移転、サービスを受け取ったが。しかし、それらは生活や自己管理のための機構の強化に寄与するのではなく、それらは弱体化され、さらには断片化された。

2005年の選挙での勝利まではボリビアの社会運動は水やガスなどの民営化のいくつかのプロジェクトを中止させるだけでなく、民衆の大部分を居住地の回復、石油・ガスの国営化、富の再配分などの提案の下に結集する力を持っていた。言い換えれば、先住民族と社会団体は新自由主義に対する社会的オルタナティブを作り上げることができた。今日、そのダイナミズムは失われ、セクターごとの取引の段階に入ってしまった。そこではそれぞれのセクターがセクターごとに自分たちの要求を掲げ、国家から最大限のもの ? 公共プロジェクト、信用、税の配分等において - を獲得するために人々を動員する。

政府から先住民族コミュニティーや社会団体のリーダーに与えられた財産は庇護者による身内びいきの論理を生み出した。社会運動は変革の提唱者であることをやめ、政府からモノや仕事を得ようとする顧客に変わってしまった。それぞれが自分たちの個別の状況を改善するために、保護者である国家に圧力をかけようとしている。もはやボリビアを変革することは問題ではなくなり、分け前を最大にすることが問題となった。本当のところ、先住民族の価値観を基盤として新しい社会を建設するという考え方は失われた。

スペインの征服者によるいわゆる近代化と資本主義に数世紀にわたって抵抗してきた先住民族の共同体が今や、彼ら・彼女らが選んだ先住民族の政府の実践と議論 - この政府は彼ら・彼女らに今後15年間、GDPの年5%成長の達成が課題だと語っている - の結果として、そのような迷妄の虜になってしまった。過去には先住民族の共同体が抵抗した消費と効率をベースとした近代化が、今では受け入れられつつある。過去には農民団体によって拒絶されていた大規模ダムのようなプロジェクトや、論外であった原子力発電所のようなプロジェクトが今では近代化の名の下で受け入れられている。先住民族の大多数の考え方を転換させるという、征服者や共和制や新自由主義が数世紀にわたって実現できなかったことが、現政府によって10年間で実現されてしまった。おそらくそのことが次の驚くべき最新統計の理由である ? 自分を先住民族であると考える人の数が増えるどころか、1990年の62%から2013年にはわずか41%に減っている。

このような資本主義的近代化の拡大が先住民族の共同体と考え方を侵食していることの1つの例として、非常に危険なダカール耐久レースが2014年以来、ボリビアを通過するようになっている。多くのヒューマニスト、環境活動家、反資本主義活動家にとって、ダカール・レースはボリビアの大統領の直接の関与によってこの国に招致された嘆かわしいイベントである。2017年に政府はこのレースの組織委員会に400万ドルを支払った。レースの半分をボリビアで開催するようにするためである。

ダカール・レースはボリビアの現実ともビビール・ビエンとも何の関係もない。このレースに参加するのに少なくとも8万ドルが必要で、参加選手は大手の多国籍企業の宣伝をする。ダカール・レースは化石燃料がもたらした頽廃的時代におけるローマ時代のサーカスのようなものだ。毎年何人かの選手や観客が死亡する。考古学的遺産へのダメージや環境への影響はマザーアースに対する文字通りの懲罰である。ダカール・レースは自然と人間の良心を侵害する植民地的見世物である。あまりにも広範な批判があり、あまりにも膨大な費用がかかることから、チリやペルーは参加をやめた。それにもかかわらず、先住民族の支持によって選ばれたボリビア多民族国家の政府の支援と協力によってダカール・レースはラテンアメリカでの開催を継続できたのである。

関係機関はダカール・レースがボリビアを現代の最先端に近づける事業であり、1億ドル以上の「経済の動き」を生み出し、ボリビアを観光地として売り込むのに役立つとしてレース開催を正当化し、称賛している。本当に目的がボリビアを売り込むことになるのなら、政府はたとえばチャスキのような文化的伝統をベースにした別の種類のイベントを宣伝することもできるだろう。チャスキは裸足でボリビアを縦断し、インカ時代のチャスキと同じように、その途上でさまざまな地域や生態系における経験・知識を共有し、さまざまな種類の知識の相互補完を促進し、参加者の間の連帯を増進し、ビビール・ビエンの価値の認識と自然への敬意を高めるイベントである。

しかし、信じられないことにこれについて政府や社会団体の中でいかなる議論も行われていない。批判的な声はごく少数であり、しかもそれは常にこのようなやり方に批判的だった先住民族からではない。もしいずれかの新自由主義的政府がダカール・レースをボリビアに誘致したとすれば、必ずそのコースのどこかで社会団体が道路封鎖を組織しただろう。しかし、レース開催を推進したのが変革を打ち出している先住民族出身の政府であり、その政府が先住民族が数世紀にわたって守ってきた価値や慣習を完全に覆したのである。

社会団体および先住民族団体はまた、腐敗によって浸食された。ボリビア先住民族発展基金などの機構はより多くの資金を利用できるようになり、それを直接に管理している一部のリーダーたちは腐敗するか、傍観することによって腐敗に加担することとなった。

中央政府の方針に反対してきた先住民族団体、社会団体、市民団体は周辺化され、無視され、疲弊し、さらには分裂した。チプニスやタコボ・モラの闘争の中で先住民族の一部が弾圧され、他の農民および先住民族団体の多くが沈黙した時、かつては自然の慣習だった先住民族の連帯は崩れてしまった。

要約すると、ビビール・ビエンは実践の中には存在せず、言葉だけに限定されたのである。

ビビール・ビエンは可能だ

われわれが経験してきたことがビビール・ビエンの名において導入された資源採掘主義的ポピュリスト・モデルだったとすれば、ビビール・ビエンの実践と考え方により忠実なモデルの実践的な導入はどのようなものだっただろうか? ビビール・ビエンは1つの国の現実の中で可能なのか? どこに問題があるのか? 先住民族共同体の境界を超えて適用できないことにあるのか? それともこの考え方への無理解なのか? この提案は十分に成熟していなかったのか?

これらの問いに答えるのは簡単ではない。この10年間、その導入のために一連の具体的提案が出されたが、それらの大部分は部分的であるか、特定のセクターに固有のものだった。ボリビアにおいてもエクアドルにおいても、ビビール・ビエンの道に沿って進むための方策についての明確で、包括的で、一貫した提案はなされなかった。いくつかの非常に有益なアプローチがあったが、それらは個別的な性質のものであり、われわれが多くの面で現実を変えていくことを可能にする総合的で複合的なイニシアチブを欠いていた。ビビール・ビエンの稚拙な、あるいは矛盾した導入への疑問やそれが導入されていないことへの批判は種々のレベルにおける一連の全体的な提案を伴っていなかった。ビビール・ビエンを導入しようとする時になると、われわれはその最も重要な前提、つまり全体性と完全性を忘れている。

国家至上主義の克服

主要な間違いはビビール・ビエンが国家権力を利用して十分に発展させられると考えたことである。実際にはビエン・ビビールは社会を基礎として構築された提案であるにも関わらずである。憲法がビビール・ビエンとブエン・ビビールを承認したことがこの幻想を増長し、国家の「開発」計画を通じてビビール・ビエンに向かって前進できるという信仰を助長した。実際にはこの考え方の核心はコミュニティーの強化、他のコミュニティーと相互補完的に関わる能力の向上、居住地の自己管理にあるにも関わらずである。

ボリビアでは副大統領がこの国家至上主義的な考え方の主要な提唱者だったが、この考え方は極端な形で適用されればビエン・ビビールとは正反対となる。アルバロ・ガルコア・リネラ(?lvaro Garc?a Linera)副大統領は次のように述べている。

「国家は社会を統一できる唯一のアクターである。国家こそが一般意思を統合し、戦略的枠組みを計画し、経済を駆動する第1機関車を操縦する。第2機関車はボリビアの民間投資であり、第3は外国資本、第4は小企業、第5は農民経済、第6は先住民族経済である。これはこの国の経済を組織化する戦略的順序である。」12

ここに表れているすべてを統括する万能の国家という考え方はビビール・ビエンとは反対方向である。あらゆる国家に付随する邪悪な力学に対抗しようとするなら、社会こそがその進路を決定しなければならない。

ボリビアにおいて、われわれは絶えず「開発主義者」と「パチャママ主義者」の間、「近代主義者」とビビール・ビエンの信奉者の間の内部闘争について語ってきた。しかし、「パチャママ主義者」、ビビール・ビエンの支持者の間違いは、われわれもまた深く国家至上主義者だったことにあると言わなければならない。われわれは国家を解体した新自由主義に反対する中で、最も重要なことは国家にもっと大きな力を与えることだと考え、権力の論理の本質を無視してしまった。

「パチャママ主義者」と開発主義者は国家の権力強化が向かうべき方向をめぐって意見が異なっていた。副大統領の考えでは、基本的な目標は、「私がかつて『アンデス・アマゾン資本主義』と呼んだ経済モデルを再度導入する」ことにわれわれの支持を獲得することだった。「つまり、産業経済の拡大を規制し、そこから利益を上げ、それをコミュニティーに移転し、さまざまな形態の自治組織を強化し、アンデスおよびアマゾン地域の特徴を備えた商業発展を促進する強力な国家を確立することである」13

この提案をめぐる議論は「アンデス・アマゾン資本主義」の概念を中心とするものであり、それが含意していた強力な国家の概念をめぐるものではなかった。これは「石油・ガスの国有化」の時期であり、国家の強化を指向するあらゆることは正しいと思われた。意見の違いは主に、強力な国家を建設する理由をめぐってだった。ビエン・ビビールを実現するためか、それとも資本主義の建設の新しい段階を進めるためか?

ビビール・ビエンの実現において国家が社会全体の組織者や計画者の役割を担うことはできないし、担うべきでない。国家は庇護者的でないやり方でコミュニティーや社会団体の能力強化に貢献する補助的な要素でなければならない。つまり、コミュニティーや社会団体に自動車や組合事務所やスポーツ施設などの物質的なモノを提供する前に、彼ら・彼女らが公共的な政策を分析、論争、質問、作成して、多くの場合にそれを国家からの承認を待つことなく実施するよう奨励することが必要である。スマ・カマニャやスマ・カウセイの概念は数世紀にわたって、インカ国家、植民国家、共和制・新自由主義国家との闘争の中で生き続けてきた。これらはそれぞれの時代の国家権力によっては承認されなかったが、共同体の中の重要な考え方と慣習だった。ビビール・ビエンを「国家化」することによって、われわれは自己管理と異議申し立てのための拠り所としての力を掘り崩し始めた。

一般的にマルクス主義的左翼にとっては目標は社会を変革するために権力を奪取することである。これは国家を奪取し、作り変えることによって社会を上から変革することを伴う。しかし、この10年間の「進歩的」政権の経験は、ビビール・ビエンにおいて権力の奪取は下からの解放と自己決定のプロセス ? 残存している、あるいは変革を進める新しい国家の中でさえ発生するすべての植民地的構造に異議を唱え、打ち壊す - をさらに推進することを目指すべきであることを実証している。

地方と共同体の力量の強化

全体との関係で考えるということは、経済が新しい社会の建設に中心でなければならないことを意味する。近年われわれが見てきているのは、間違って「ビエン・ビビールの政府」と呼ばれている政府における経済成長という強迫観念である。それは経済の中の商品化された部分、つまり、自然や人間を破壊する方法で資本主義市場に入る商品やサービスの生産だけを測定するGDPという指標で表される成長である。

資本主義市場向けの経済の成長ではなく、すべてのレベルにおける均衡の回復 ? 経済および社会の種々のセクターの間の均衡を目指すことであり、それは不均衡の構造的原因に対処することなしには実現不可能である - を促進することに努力を向けるべきである。

現在の深刻な格差は貧困層に条件的現金移転を行うだけでは解決できない。再分配は経済的に強い層の懐に入った残りの収入をバラ撒くことに限定することはできない。平等の追求をいくつかの福祉プログラムに矮小化して、地主や資源採掘企業や大銀行による莫大な利益の蓄積をそのままにしておくことはできない。

この10年間の経験から、多国籍企業や国内の寡頭支配階級は、社会的圧力によって余儀なくされた場合には、すべての利益を失うのを避けるために所得の再分配を受け入れる可能性があることを示している。しかし、国際価格の高騰による思いがけない収入が終わった時、彼らはあらゆる手段を使って政府から「進歩派」を取り除き、最も野蛮な新自由主義政策を導入させようとする。

強者の権力を決定的に無力にすることなしには富の再分配のあり方を大きく変えることは不可能である。実際に行われたことは多国籍企業と交渉し、いくつかの企業を国有化し、銀行、アグリビジネス、一部の民間企業との協調を追求し、外国からの「公正な」投資を誘致することだった。

このモデル - 第1に国家、第2に国内の民間投資、第3に外国からの投資、第4に小企業、第5に農民経済、そして最後に先住民族経済 ? は失敗した。このいわゆる複合経済は妄想だった。なぜなら、それはすべての人が承認され、平等な条件を享受できるかのように装っていたが、現実には階層とピラミッドの構造が存続し、その中で国家は公共投資を大幅に増やしたが、民間部門(国内および国際)は単に利益を大幅に増やしただけで、再投資せず、小企業、農民、先住民族部門はいくつかの公共福祉プログラムの受給者の役割に追いやられたからである。

われわれの努力をどこに向けることができたのか? 新しい経済がまさに農民と先住民族の経済、および国内の小規模な地方経済を中心とすることを保証するべきだった。金融、資源採掘、企業農業セクターの手に集中していた富の真の再分配を保証するべきだった。そのためには、後戻りして、大地主の土地を再分配し、民間金融部門をより効果的に規制し、徐々にそれを国有化し、資源採掘企業の資源をより効率的に活用することによってわれわれが資源採掘主義から脱出するのを助けるようなプロジェクトを推進し、地方経済および共同体の自己管理能力と相互補完性の強化を通じてそれらの経済の強化を促進することが基礎となる。

ボリビアのような国の真の可能性は農業エコロジー、農的林業にあり、また、先住民族および農民の共同体をベースにした食料主権の強化にある。この展望においては政府の基本的役割は共同体企業を上から作ることではなく、地方レベルの、地元の人たちの能動的参加による生産、交換、信用、伝統的知識、斬新な技術のネットワークを強化することでなければならない。しかし、実際に優先されたのは共同体的社会の組織を強化することではなく、すぐに宣伝効果がある華々しく目覚ましい仕事だった。遺伝子組み換え作物を使わないエコロジー的農業は演説の中で取り上げられているだけであり、その一方で、実際にはこの10年間にボリビアで農薬、除草剤の使用が増えている。

巨大インフラ・プロジェクト、巨大ダム、原子力研究センターは前世紀の陳腐化した資本主義的発展モデルの一部である。すでに「北」の諸国でも放棄され始めているこの「近代化」に沿って進もうとするのではなく、その正反対に、段階を跳び越えて最新の科学の進歩を民営化の観点からではなく共同体的、社会的観点から活用することが必要である。それはボリビアを電気エネルギーの単なる消費者から生産者へと転換させるために、コミュニティー、家族、地方自治体のレベルでの太陽光および風力エネルギーに目を向けることを意味する。

コミュニティーの能力強化には、古来の慣習や知識を活用し、それを最新の技術の進歩と組み合わせる ? それが自然との均衡を回復し、人間のコミュニティーを強化することを助けることを前提として - ことが含まれなければならない。再生可能エネルギーは自動的にシステム危機を解決するわけではない。なぜなら、それらもまた住民を立ち退かせ、資源の支配を確立し、資本主義を再構成する可能性があるからである。

この10年間の経験は、複合経済が実現できるのは資本の支配が克服される場合だけであることを示している。これは反資本主義的な演説をすることによってではなく、資本主義の支柱である金融資本に対抗する効果的な措置を講じることによって可能になる。大企業を解体するための措置が実施されなければ、複合経済の他の構成要素は常に周辺化され、無視されるだろう。

地方および共同体における生産を中心に位置付けることは国営企業や公共サービスをなくす、あるいは脇に退けることを意味しているのではない。それらはその本来の性質から、国家および全国レベルでこそ最も適切に管理・提供できる。これはたとえば銀行や、その性質上全国均一であるべき教育・医療・通信などの公共サービスに当てはまる。しかし、そのような国営企業や公共サービスは、官僚化や腐敗を避けるために市民参加の実効的なメカニズムを組み込み、また、各地域で経験している現実に合わせて調整される必要がある。

われわれは常に「輸出か、それとも死か」という表現 ? 新自由主義的政権が考え出した ? を批判してきた。しかし「進歩的政権」もその力学に囚われてしまった。彼らのお気に入りの生産は外貨をもたらす生産である。だから彼らはアグリビジネスの大企業がGMO大豆を輸出することを許可しているし、バナナの輸出を促進するためにEUとの自由貿易協定を受け入れているのである。

ビビール・ビエンの枠組みでは、グローバル経済の好況/不況の影響にさらされる地方および全国の経済に強い弾力性をもたらすことを目標にしている。それは輸出をやめることではなく、経済が数少ない生産物の輸出に左右されないようにすることを意味する。その目的は主権を拡充し、地方における人間の共同体と地球の生態系を強くすることである。

自由貿易協定には明確な論理がある。それは全く対等でない国、産業、企業に対してあたかも対等な立場であるかのように競争を強制するものである。そのような条件の下では、勝者となるのは常に多国籍企業、巨大アグリビジネス企業、そして最も強力な金融部門の資本である。世界貿易機構(WTO)や地域/二カ国間自由貿易協定の自由貿易のルールはビビール・ビエンの社会の建設の可能性を掘り崩す。なぜならそれは大企業に特権を与え、小生産者に不利な条件を強いるからである。

この10年間の経験はわれわれに、自由貿易協定を拒否する、あるいはそれを転覆させるだけでは不十分であることを示した。対外貿易を規制する措置を導入し、国家による重要な対外貿易の管理と効果的な密輸への規制を実現する必要がある。このような措置を導入しなければ、超国家的な生産や密輸が地方経済、共同体経済、そして国家経済を侵食することができるだろう ? いわゆる進歩的政府の下で起こったように。

現在のグローバル経済の中で、完全な輸入代替化を一国規模で実現するのは不可能である。小さな国/地域は常に輸入に依存するだろう。そのため、外貨が過剰な消費に回されるのではなく、地方経済の強化に必須の品目の購入に向けられるように、輸入を規制することが非常に重要である。

この目標は対外貿易を管理するための機構だけでは達成できない。持続可能な消費の文化的パターンを広めることが同時に求められる。進歩的政府の下で多くの人々の所得は向上したが、資本主義社会と同じ消費のあり方と浪費が続いている。

自然と一体化する

コレア大統領が信奉した「石油の種蒔きをする」というスローガン ? つまり、経済を多様化するためにより積極的に資源開発を進める - は幻想である。アルコールをもっとたくさん摂取することでアルコール中毒を克服することが不可能であるのと同様に、資源採掘主義を更なる資源採掘の促進によって克服することはできない。

ボリビアやエクアドルのような従属資本主義国において資源採掘主義に対する闘争は、資本の論理と権力の論理が明確に表現されるため、極度に困難な闘争になる。そのため資源採掘主義はやっかいな中毒をもたらし、それが経済の多様化やビビール・ビエンの構築のための努力を侵食している。今日のボリビアでは、誰もが石油・ガスに由来するレント(地代にような不労所得)の中毒に陥っている ? 中央政府・州政府から、市、大学、軍、先住民のリーダー、そして一般の人々まで。

中毒を断ち切るためには、始めに、中毒であることを認識する必要がある。ボリビアで、もし石油やガスの探索に投資される何十億ドルもの公的資金の何分の1かが太陽光エネルギーやコミュニティー規模の風力発電のために投資されていたなら、われわれはこの国のすべての需要を満たすことができていただろう。

同じことが森林伐採についても言える。それは強度に高いコストがかかり、結果がもたらされるまでにあまりにも長い年月が必要で、しかも結果は不確かであり、われわれが破壊してきた自然林の豊かさと生物多様性を償うものでは決してないだろう。われわれがなすべきことは、森と共生して生きている先住民共同体から学び、農的林業のイニシアチブを広めることである。森林伐採をしなければボリビアの食糧の安定確保を保証できないという議論は間違っている。政府の統計によると2001年以降、860万ヘクタール以上の森林が伐採されたが、全国の耕作地の総面積は350万ヘクタール増えただけであり、そのうち190万ヘクタールは工業的農業 - 主要には輸出向け大豆の生産(120万ヘクタール) - に充てられている。

自然の権利がこれまで書類上だけにとどまっていた理由は、進歩的政府に資源採掘主義的なプロジェクトを制限する意志がないことにある。自然とマザーアースの権利は、生態系に対して継続的になされてきた侵害を抑止および処罰し、特に、すでに破壊された地域の復元と再生を進めるための自治的な仕組みと規則を必要とする。

石油などの自然資源の国有化は、国有化したとは最後の一滴まで採掘できることを意味するのではない。汚染を引き起こしている産業や消費主義を煽る産業を国有化すればそれらの産業がクリーンで持続可能な産業に変わるわけではない。この10年間の経験は生産手段(鉱山、石油・ガスの埋蔵地など)を国有化または国営化するだけでは十分ではないことをわれわれに教えている。それらを転換し、より公正で均衡の取れたエコ社会の開花につながるような事業に置き換える必要がある。

第1回「気候変動とマザーアースの権利に関する世界人民会議」で提案され、採択された「人民の合意」で述べられているように、克服しなければならないのは生産力主義であって、資本主義だけではない。

「ソヴィエトの経験はわれわれに、破滅的な条件を伴う略奪的な生産システム ? 生活条件を資本主義の下のそれと同じようなものにする - というものは他の所有関係の下でも起こりうることを示した。それに対する対案は文明の根本的な転換に導くものでなければならない。この根本的な転換がなければ地球上での生活を継続することは不可能である。人間は大きなジレンマに直面している。資本主義、家父長制、『進歩』、そして死へ到る道を進むのか、それとも自然との調和、生命への敬意の道を進み始めるのか・・・」14

全面的な文化的多様性

進歩的政府の下で起こった変化の最も大きな力の1つは文化的多様性の承認に関係している。ボリビアでは多民族国家の概念は1つの達成された成果であり、これは他の国の現実に適用された場合に、同じ領土の中で異なる国民や民族が共存するのを助けるだろう。そのほかの非常に重要な前進として、土着言語の承認、公務員に2つ以上の言語(スペイン語と1つの先住民族の言語)を話すことを義務付けたこと、先住民族の自治と先住民族の農民、および先住民族の裁判制度の承認が挙げられる。

しかし、これらの提案の多くは憲法といくつかの法律の中にのみ残っており、現実にはその導入にあたって大きな問題に直面している。ボリビアでは先住民の市や居住地の承認は「障害物競走」として特徴づけられている。先住民族の支持によって選ばれた中央政府の下で、自分たちで統治し、政党なしの共同体民主主義を実施し、自分たちの居住区の中の自然資源の利用に関する提案について協議を求められる権利を持つような先住民族の自治の確立を促す効果的な政策は全くなかった。

先住民族の法律は承認されたが、共同体の中だけに限定され、正規の司法制度が先住民族の司法制度に対する事実上の優先権を有している。より参加的な司法制度 ? 無償で利用でき、自然を尊重し、参加型のコンセンサス(合意)を通じて係争を解決しようとする ? であれば可能であったと考えられる大きな関与はほとんど認められていない。

家父長制の解体

憲法や法律の上ではジェンダーの平等と政府や議会への女性の参加において重要な前進があった。土地所有、機会均等、女性への暴力、母乳による育児、女性の健康、母親に対する雇用の安定、定年などに関連して一連の基準が採用された。これらは法律面においては前進だった。国会、市議会、内閣、その他の政府機関における女性の比率は世界最高水準である。

しかし、ボリビアはまだ家父長制の慣行や偏見を打破するという点ではまだ長い道のりを進まなければならない。偏見について言えば、政府の中核部分 ? 依然として基本的には男性によって構成されている ? から発せられる表現、ジョーク、評価から判断した時、一連の男性至上主義の慣行やイメージによって強化されている。

家族、共同体、国家構造の中に存在する家父長制的秩序は生き残っているし、多くの形で再生産されている ? そのいくつかは気が付かないうちに。上級の公職者による男性至上主義的なジョークやコメントが女性の閣僚や女性議会から問題にされず、時には正当化される。政治的に責任のある部署における女性の割合が増えたことが、女性の従属や抑圧を再生産している力関係を変えることを目指す行動に結び付いていない。差別的な決めつけや文化的パターンが根強く残っており、最も影響力のある男性たちの行為によって勢いを与えられている。

女性に不利な生産と富の再分配のモデル、家事労働における男女の役割、公的生活と私的生活の分離は基本的に変わっていない。女性の自立と決定権は依然として制限されている。女性への暴力 ? 時には死に至る ? は依然として日常的な出来事である。

ビビール・ビエンはもともとの概念としては、家族、社会、国家のレベルにおける家父長制の解体の問題を強調していなかった。しかし、これがすべての人の間、そして人間と自然の間の均衡を実現する社会に向かって進む時の不可欠の要素であることは明らかである。

本当の民主主義

ビビール・ビエンは全体のさまざまな部分の間の相互の尊重と、均衡と相互補完を前提条件としている。しかし、われわれが進歩的政府の中に見てきたものは、執行権力が権力を独占し、他の権力を支配しようとする試みだった。新自由主義的右翼の最も頑強な表現を打ち負かしたことは、活気に満ちた民主主義 ? その中では国会が、自分たちの基準、あるいは自分たちを選んだ有権者の基準を基に規則を提案し、批判し、採択する ? の再発進にはつながらなかった。新自由主義的民主主義が中央政府の指示に従うだけの「挙手要員」による民主主義に置き換わっただけである。

ボリビアでは、執行権力は司法の主要な機関を支配するための方法と技術を採用した。そのため、司法に関わる最も重要な地位にある裁判官を選挙で選ぶなどの斬新な提案が価値を減じ、信用をなくした。同様に、新憲法の中で明記されている参加と社会による統制は書類上のことにとどまっている。

本当の、機能する民主主義がなければ、ビエン・ビビールのために不可欠な自己管理、自己決定、コミュニティーと社会団体の能力強化を前進させることは不可能である。民主主義の実践は強者、そして国家そのものの権力の制限を伴う。中央政府が大衆参加を制度化し、社会団体を取り込み、国家のさまざまな権力を支配するなら、本当の民主主義の構造は骨抜きにされる。大衆参加の民主主義は国や地方のレベルにおけるビビール・ビエンの構築の1つの主要要素である。なぜなら、いかなる政府も、また、いかなる人民も新しいエコ社会の建設において誤りを犯すことが予想され、そのような誤りを見つけ、修正し、新しい道を考え出す唯一の方法はすべての者が参加することにあるからである。

国際的な相互補完性

この10年間の経験は、ビビール・ビエンが資本主義的、生産力主義的、資源採掘主義的、家父長制的、愛国主義的、人間中心主義的なグローバル経済の脈絡の中で、一国では実現不可能であることを明らかにした。この構想を前進させ、発展させるために、1つの重要な要素は、この構想を明確にし、他の国における同様のプロセスと相互に補完することである。このプロセスは自由貿易のルールに従わない経済統合のための協定を促進することに限定することはできないし、また、このプロセスを国家あるいは政府間のレベルに限定することもできない。批評家たちは、おそらくこの10年間の経験の最大の失敗の1つは、いくつかの社会団体および先住民族団体の連合がいくつかの進歩的政府に接近しすぎたために、独立性を発展させる能力を失ったことにあると指摘している。今から振り返って、ラテンアメリカのグローバル・ジャスティス運動の中の一部の人たちは、一部の団体は強くなるのではなく、変革についての独自の構想を明確化できなかったために弱体化したと考えている。一部の団体は自分たちの理想郷を進歩的政府の政治的計画とまぜこぜにしてしまって、政府の計画を批判するあるいはその先を夢想する能力を失ってしまった。

転換のプロセスを開花させるためには、国境を超えて、現在地球上にさまざまな形で入植している他の国々にそれを広める必要がある。グローバル権力の決定的な中心部にそれが広がらない限り、変革のプロセスは孤立に終わり、活力を失い、ついにはそのプロセスを生み出した原理や価値観そのものを否定してしまうだろう。

その意味でビビール・ビエンの未来は、地球上の異なる大陸で、概ね同じ目的に向かっている他のさまざまな構想の復活、生成、活性化に大きく依存している。ビビール・ビエンは他のオルタナティブなシステムの構想との相互補完を通じてのみ可能である。

[文献リストは省略し、本文中で参照されている文献のみ初出箇所に脚注を付けている。]




パブロ・ソロン
ソロン財団(ボリビア)、元ボリビア国連大使。ボリビアで種々の社会運動、先住民運動、人権団体、文化団体で活動。モラレス政権の下で2006年12月~2008年5月、UNASUR(南米国家連合)の大使として地域経済統合と通商を担当。2009年2月~2011年7月 ボリビア国連大使。「水への権利」、「国際マザーアースデー」、「先住民族の権利」などの決議の採択に尽力。COP16(カンクン)、17(ダーバン)で「南」を代表して欺瞞的合意を批判。その後もWSFなどでクライメート・ジャスティス(公正な気候変動対策を)の運動を牽引。2010年のコチャバンバ会議(気候変動世界人民会議)の開催に尽力。2012~2015年 フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウス(バンコク)代表。現在、ボリビアに戻って活動している。

Systemic Alternatives Initiative 編“Systemic Alternatives”について
ソロン財団、ATTACフランス、フォーカス・オン・ザ・グローバル・サウスの共同編集で、本稿のほか、「脱成長」、「コモンズ」、「エコフェミニズム」、「マザーアースの権利」、「脱グローバル化」についての論点が紹介されている。冒頭に示しているサイトから無料ダウンロードできる。



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