グローバル・ジャスティス研究会(京都)でのマラシーさんの報告

4月21日の講演会でのマラシーさんの報告は大変な衝撃でしたが、うまく通訳できず、十分に伝わらなかったと思われます。その後マラシーさんに事情を説明し、原稿を送っていただいたので、その日本語訳を配信します。参加されなかった方も是非お読みください。

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タミル・イーラムは事実上の国家だったが、軍事力によって破壊された
<4月21日のグローバル・ジャスティス研究会(京都)でのマラシーさんの報告>

私はタミル・イーラムで2005~09年に起こったことを目撃しました。実際に私は一般市民よりもよく観察できました。私はNESoHR(北東部人権事務局)という人権団体に属していました。NESoHRは2002年に始まった和平プロセスの一環として設立されました。私はその立場で停戦中と停戦後の戦時の両方の時期に起こったことを可能な限り記録していました。

私は始めにタミル・イーラムの事実上の国家とその重要な業績について説明し、次にこの国家の完全な破壊について述べます。
タミル・イーラムの事実上の国家には5つの主要な部門がありました。軍事部と外務部については詳しくは述べませんが、もちろん軍事部は強力で、よく知られていました。外務部は主にディアスポラ(海外に離散した人たち)の間で活動しており、それぞれの国でのロビー活動や資金集めをしていました。
財務部の主な活動の1つは銀行です。タミル・イーラムの全地域にタミル・イーラム銀行の支店がありました。タミルの人々は銀行をよく使っていました。預金や貴重品を安全に保管するためにです。それが破壊されたため多くの市民が財産をなくしました。貴重品がどうなったかはわかりません。多くがスリランカ軍の手に渡ったと思われます。

財務部は税の徴収も行っていました。外部の権力者たちはこれを「強奪」と呼んでいました。しかし税の徴収はきちんと管理されていました。事実上の国家が提供していたサービスを考えれば、スリランカ政府が徴収する税よりも有意義な方法で使われていました。

司法・警察部はすべての業務における男女同数制が特徴でした。最高裁判所の判事も男女同数でした。

政治部の活動は市民にはもっともよく見える活動でした。政治部の中の各部局は、さらにいくつかの下部機関によって構成されていました。非常に多くの機関がありました。メディア局、印刷局、ラジオ局、テレビ局、出版部、メディア学校がありました。森林局は大規模な再植林を行っていました。これは移動中の道路からでも見えました。障がい者向けサービス、心療サービス、高齢者介護サービスもありました。それらはさまざまな形で存在していました。また、公共交通サービスも広範に提供されていました。
教育局はスリランカ政府の教育システムを補完するものであり、それに代わるものではありませんでした。

先に述べたように、司法・警察部はすべての部署において男女同数でした。そのほかに、女性だけの機関として、CWDR(女性のための開発・調査センター)、CWR、女性評議会などがありました。CWDRは 支援を必要としている女性に技能訓練や雇用計画、託児サービス、シェルターなどのサービスを提供していました。CWRは女性の問題に関する調査を実施しました。女性評議会は女性に関する決定を行っていました。これらはすべて女性だけで構成される機関でした。このほかに芸術文化局は女性のエンパワーメントを奨励する劇を制作しました。

次に、この事実上の国家が和平プロセス断絶後の2年の間にどのようにして破壊されたかをお話しします。

人々の強制移転は2007年にイーラムタミルの南部から始まりました。次に西部でも始まりました。この動きは2年にわたって続き、タミルの全住民が徐々にますます小さなスペースに押し込められました。すべての財産や持ち物を残して移転したタミル人に対してスリランカ政府は食料や医薬品の供給を遮断しました。

2年にわたる強制移転の間、私たちは次々と避難のための穴を掘り、道端や木の下で生活しました。2年間、私たちは頭上を頻繁に飛び交う爆撃機を見張っていました。市民の死は日常のことになりました。市民の自動車や救急車、通学バスへの攻撃が常態化しました。NESoHRの創立メンバーやタミルの国会議員などの高名な人たちもターゲットとされ、殺されました。

移転する人々であふれた通りが砲撃されました。混雑した道路上で多くの人々が殺されました。遺体はトラクターやトレーラーに載せて運ばれました。移転した人が住んでいたテントが血で覆われ、ボロボロに壊されている光景がありふれたものとなりました。空き地は病院となり、負傷者や死者が運ばれました。医者やボランティアは命の危険を冒して最善を尽くしました。そのような場所すら攻撃を受け、負傷者、医者、ボランティアが殺されました。
私たちはムリバイカルまで来ました。砂地に掘った穴は雨で崩れ、常時砲弾の音が響いていました。飢えをしのぐため、命がけで外に出ました。母親は死んだ子供の上にかがみこんでいました。生まれたばかりの赤ん坊の遺体に砲弾の金属片が刺さっていました。遺体は倒れた場所にそのままにされていました。

次に政府軍がやってきて、ここを「非戦闘区域」とすると宣言しました。2009年の1月から5月までの間にたくさんの人が死亡しました。死者の数は不明です。最大で14万人が死亡したと推定されます。これが2009年5月に起こったことです。
生き残った人たちは「非戦闘区域」を出ました。20万人以上いました。子どもや赤ん坊を含めてです。みんな国連機関が支援する巨大な収容キャンプに閉じ込められました。子どもたちはひどい生活環境のために死にました。性的暴行や、大量逮捕、逮捕後の行方不明(・・・拷問され、性的暴行を受け、殺害されたと推測されます)が増えました。私は4カ月でそこを逃れました、他の人たちはそこに1年以上閉じ込められました。 <終>

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