フォックスコン:あるベテラン女性工員の奮闘記(前半)

フォックスコン:あるベテラン女性工員の闘争記

[この闘争記はATTAC首都圏のMLに掲載されたものを転載しました。翻訳はATTAC首都圏の稲垣さんです。かなりの長文で、MLでは何回かに分けて投稿されています。今回掲載する部分は、その前半にあたります]

フォックスコンで長年働いてきた小芳(シャオファン)は、不公平な業績評価への署名を拒否し、労働組合へ苦情を申し立てたが解雇された。こうして彼女は自らの権利を守るために長く困難な道を歩み始めた。職場での嫌がらせ等の陰湿な圧力に直面しながらも、彼女と友人たちは互いに支え合い、権利のための活動に立ちふさがる壁を乗り越えようとしてきた。組立ラインから裁判所へ、沈黙から声を上げるまで、小芳はたたかいを通じて自分を取り戻した。

筆者:水瓶紀元、2025年7月8日
原文 https://aquariuseras.substack.com/p/fushikang-xiaofang

文章:张燚燚
編集:滚木
ウェブ編集:cc

友玲と別れ、アパートに戻ったのは夜12時近くだった。小芳は机に向かい、頭が冴えているうちに何か書こうと考えていた。
机の上には小芳のニットウェア、フラワーアレンジメント、絵の具、そしてわざと白い部分を残していた塗り絵が置いてあった。それは、咲き誇る美しい花束の絵だった。この家に引っ越してきたばかりの頃、ベッドの下には蜘蛛の巣が張っていた。小芳はそれを一つ一つ剥がして掃除し、「ネズミの巣穴」から「盤糸洞」に引っ越してきたみたいだと冗談を言った〔盤糸洞は『西遊記』にでてくる蜘蛛の精の女怪の巣穴〕。しかし、南向きの窓とバルコニーがあり、明るく風通しの良いこのワンルームに小芳はとても満足していた。以前のアパートは湿気と寒さでゴキブリやネズミが出没し、来客が吐きそうになっていたからだ。新居の壁は、自分の身長と同じ高さまで白のペンキで塗り替え、棚や机、椅子などを配置して、すっかり住みやすくなった。この年は15歳で工場の寮に入って以来、初めて自分のプライベート空間を持つことができた年になった。

原稿を書き終えた。小芳は、前に住んでいた工場の寮の自分のベッド用のカーテン――星がちりばめられた薄い夜空の模様――を引っぱりだして、壁際に置かれたベッドのベッドボードに掛けて背景を作った。今夜、彼女は新たなアイデアを思いついた。フォックスコン工場ではすでに廃止された古株だけが持っているバラ色の作業服を引っ越しの荷物の中から取り出した。スマホスタンドを設置して作業服を着ると、小芳は新たな動画を撮影した。「管理職は労働者にどのように意地悪をするのかというと…」。動画は真夜中に配信された。動画の上部に表示されていたタイトルには「あるフォックスコンのベテラン女性工員の闘争記」という文字が浮かび上がっていた。

◎屈しない

小芳は2017年7月に「三赢科技(深圳)有限公司」(フォックスコン傘下の会社)に就職し、フォックスコン工場の生産ラインの工員になった。2023年末、彼女は同社と無期雇用契約を締結した。しかし1ヶ月後、彼女が労働問題で労働組合に訴えると、フォックスコンは「欠勤」を理由に彼女との雇用契約を解除した。小芳は労働仲裁を申し立て、解雇無効の確認と損害賠償を求めた。仲裁手続きで会社は、従業員マニュアル研修会で彼女が署名した記録を証拠として提示した。小芳はこの筆跡は自分のものではないと異議を申し立て、署名が偽造されたものだという判断されたにもかかわらず、仲裁判断は依然としてフォックスコンによる解雇を支持するものであった。小芳はこれを不服として控訴した。第一審は2025年4月に開かれ、判決はまだである。

北京冠楠法律事務所の郝正新弁護士は、小芳にオンラインを通じて法的支援を無償で提供してきた。郝弁護士は長年、労働側弁護士として代理人を務めてきた。前に小芳と会ったときに、彼女が保管していた証拠や書類も確認していた。郝弁護士は、小芳が「信頼できる」「揺るぎない粘り強さ」「簡単に諦めない姿勢」に感銘を受けたと述べた。「彼女が経験した権利擁護のプロセスは、法的に労働者が利用できるあらゆる手段を尽くし、中国における労働者の権利擁護のあらゆる側面の困難さを明らかにしました」。

仲裁の申し立てを決意するまで、小芳は耐え難い一週間を過ごした。

小芳によると、彼女が「C評価」の業績評価報告に署名を求められたのは2024年1月10日のことだった。工員はだいたい3年ごとに1級昇進し、昇給幅は50元から500元になった。当時、勤続6年半の小芳は「工員2」の身分で、普通なら2024年内に「工員3」に昇進するはずだった。しかし、「C評価」は「業績不良」に分類され、昇進や昇給の可能性は低く、支給される年末ボーナスにも影響が出ることから彼女は納得していなかった。年間を通して遅刻、早退、欠勤といった勤怠記録もなかった。なぜ勤怠記録で減点された他の同僚と同じC評価を受けなければならないのか? その疑問に課長はこう答えた。「不満なら夜勤に回すよ」。

翌日、会社との調停の最中に小芳は家族からSNSでメッセージを受け取った。会社が何度も家族に電話をかけ、小芳が病気で自殺願望があり、家族に彼女を自宅へ連れて帰るように伝えていたことを知った。その後の数日間、小芳は「C評価」評価書に署名するよう何度も出社するよう求められた。小芳が署名を拒否すると、職場ででっち上げの懲罰を受けた。ラインの副リーダーが1日12時間、彼女の勤務を監視し、また突然残業時間情報へのアクセスができなくなった。アクセスが制限されると残業申請ができないので、当然、割増賃金賃金もなくなる。何度か残業を申請したが却下された。「残業手当」がない場合、毎月基本給しか受け取れない。そこから社会保障費、法定積立金、食堂の食費などの経費も差し引かれる。当時の小芳の基本給は2950元で、深圳市の最低賃金2360元と610元しか違わないほど少なかった(深圳市の最賃は2025年には2520元に引き上げられる予定)。

明らかな嫌がらせに直面しても、小芳は屈しなかった。2024年1月20日、彼女は事務棟のあるエリアに「従業員アピール」を掲示し、自分が受けた不当な扱いと残業への参加を訴えた。しかし、すぐに報復が始まった。その日の午後、彼女は「職務違反通知」に署名するよう求められた。それを拒否すると、早番と週末の勤務から外すと脅され、その日の早番から外されてしまった。早番と週末勤務は時間外労働なので割増賃金が支払われる。これは、労働者にとっては「福利厚生」でもあった。翌日は日曜日だった。小芳は週末勤務で稼ぐ機会を諦めたくなかった。出勤時間を打刻して業場に入った。残業させないのは「雇用差別」だと訴えたが、すぐに現場から締め出された。管理者がまた違反通告に署名を求めてきたので、再び拒否すると、現場の管理者ら5人に囲まれて「警察に通報した」と恫喝された。同じ日、他の従業員からも嫌がらせを受けたが、その様子はスマホに録画した。その日の夜、班長から連絡があり、この日の出勤は労働ではなく「自発的なボランティア」だと告げられた。

「工場に残るのは絶対に無理でした」と小芳は語る。工場には至る所に監視カメラが設置されていたが、工員らが電子機器を持ち込むことは禁止されていた。その後、小芳は毎日出勤し、会社の労働組合に行って、8つの問題を解決してほしいと組合に要望した。1週間後、彼女は4日間の欠勤を理由に解雇された。解雇の根拠は、フォックスコンの「グループ従業員懲戒管理規定」だった。そこには「時間通りに出勤しない、または8時間以上欠勤する者は解雇される」と規定されていた。

不当な扱いを受けて、毎日会社に行って労働組合に権利を主張することが欠勤とみなされるのか?これは、小芳の裁判のなかで重要な争点の一つとなっている。弁護士の郝正新は、明確な法的規定はないものの、標準的な意味での「欠勤」とは「無断で職場を離れた」または「理由なき欠勤」を指すと指摘した。小芳が労働組合に苦情を申し立てる前に、長時間にわたって上司に苦情を申し立て、話し合いを重ねようとしてきたが、何の成果も得られなかったことから、「彼女は自らの権利を守るために生産現場を離れて組合に訴えた。これはある程度、理由のあることだ」と述べた。

しかし小芳は、仲裁申し立てのなかで自らの解雇の手続きが違法なものであったと主張している。「中華人民共和国労働契約法」の第4条では「事業所の規則及び制度は、職工代表者大会又は全従業員代表会議において討議され、提案及び意見を提出し、労働組合又は従業員代表との平等な協議を経て決定されなければならない。使用者は、従業員の重大な利益に直接影響を与える規則及び重要な決定について、公表し、又は従業員に通知しなければならない」と規定している。しかし小芳によると、フォックスコン側が証拠として提出した「全従業員向け説明研修会出席簿」(就業規則の書かれた「従業員ハンドブック」を使って受講する研修の出席簿)に記載された小芳の署名は偽造であり、小芳自身は「従業員ハンドブック」を見たこともないと否定した。その後、裁判においてフォックスコンは、「社内のイントラネットで同情報は公開されていた」と証言したが、小芳が就業規則を知らされていた証明にはならなかった。

より基本的な手続き上の問題、すなわち「従業員ハンドブック」が民主的な手続きを経て制定されたのかどうかについて、郝正新弁護士は次のように説明する。「裁判所は多くの場合、形式的な審査のみを行い、実質的な審査は行いません。印鑑、記録、そして『文書』さえあれば、これらの手続きが単なる形だけのものなのか、労働者が本当に参加しているのかどうかは問題にしません。」

郝正新によると「実際には、権利を守るために仲裁機関に訴える場合でも、労働組合や税務当局に訴える場合でも、多くの人は『従業員ハンドブック』に定められた規定に従って休暇を申請しない限り、欠勤とみなされます。この考え方の根底にあるのは、『従業員が職場にいるのは勤務しているときだけ』というものです」。さらに彼女は「しかし、憲法の原則によれば、従業員には包括的な発展の権利があります。企業は、これを付加的な福利厚生や優遇措置として扱うのではなく、従業員に包括的な発展の権利と条件を提供すべきではないでしょうか」と語る。

◎パワハラへの対応

小芳の動画アカウントは初公判の前日に開設された。

彼女は、権利を守るために、ライブ中継や動画編集のセミナーに顔を出さざるを得なかったと述べている。解雇後も、彼女は消極的に待つよりも、自ら法的手段に加え、積極的に社会保障や積立金の回収、労働仲裁機関への申告、そしてインターネットへの記事投稿などを行った。

インターネットで権利を訴える取り組みにおける最初の難関は、インターネットプラットフォームの審査である。2024年2月、小芳がWeibo(@大口吃面2018)に投稿した10件の記事は短期間で削除され、残りは5件となった。小紅書〔中国国内のミニブログサービス〕にアカウントを開設した初日には、麺類を模して作ったアバターまでもが問題ありと通報されてしまった。小芳は事件について世間に訴える動画を撮影し、その中で「皆さん、私と女性労働者に注目してください。女性労働者は声を上げ、自らの利益のために闘う必要があります」と静かに訴えた。14分間の動画は現在10万回以上再生されている。しかし、最初のライブ配信はわずか30分で通報され、配信は強制終了された。

小芳は自身のケースを訴えるだけでなく、工場の現場で働く人々の経験や工場の経営手法についても語っている。小芳は今年6月6日の夜に「職制はどのように労働者に『パワハラ』するのか」という動画を公開した。その日、仕事が終わるとすぐに友玲の健康診断に付き添って地域の健康サービスセンターへ行った。その夜、二人は「職制はいかに労働者に対して『パワハラ』をするのか」について語り合い、このとき語り合った二人の経験をまとめた「パワハラ対処指南」が生まれました〔パワハラの原文は「穿小鞋」。直訳は「サイズの小さい靴を履かせる」〕。

「サイズの小さい靴を履かせる」とは、中国語で陰険な方法で他人にプレッシャーをかけたり、困らせたりすること。工場では、これは非常に明確なシグナルであり、管理者に「狙われている」ということを示す。直接解雇が言い渡されることはないが、非公式にさまざまな組織的な抑圧に直面する可能性がある。隔離、異動、取り囲まれての叱責、夜勤に回される、残業の取り消し〔手取りが減る〕、警告、「重大・軽微な過失チェックシート」への署名、「C」評価、家族への通知、心理評価などだ。これらの手段は手続き上は合法であり、実行は計画的であり、圧力をかけ、従業員に自発的に退職させることを目的としている。強いプレッシャーのもと、労働者が「従業員規則」に誤って違反した場合、雇用関係を「合理的」に解消することができる〔違法解雇にならない〕。これらの手法はいずれも、工場が金銭的賠償を回避できるものであり、不当解雇にはならない。これは、従業員を退職させる最も低コストで、違法性を立証することが最も困難な方法といえる。

二人は、この行き詰まりを打開しようと話し合った。当時、工場側から「パワハラ」されていたからだ。5月、友玲が3ヶ月前に同僚から平手打ちされた事件を会社は「互いに殴り合った」と断定し、友玲は「重罰処分通知」に同意する旨の署名を求められた。しかし友玲は署名を拒否し、警察に通報した。その週末に友玲に新たな懲戒処分が通知された。そこには「作業帽の着用義務違反」と書かれていた。退勤前にDingTalk〔アリババが開発したメッセージ・コミュニケーションアプリで業務管理にも使われている〕のメッセージが届き、「来週月曜日は夜勤」と通知がきた。7年近く前に友玲が夜勤中に高血圧で倒れて以来、会社はずっと彼女を夜勤シフトから外してきた。彼女は「夜勤は推奨されない」または「夜勤は避けるべき」と書かれた医師の診断書が至急必要になった。小芳が地域の健康センターに駆けつけたのは夜9時を回っていた。一晩中何も食べていなかった友玲は、胸部治療センターの救急室で弱々しく横たわり、酸素吸入とボトルの圧力で呼吸していた。血圧は170を超えていた。小芳は、かつて自分が労働組合にかけこんで権利を主張した日々を思い出した。あの時も胸が痛くなり、「生気のない」状態で、1日にやっと饅頭〔マントウ:中国式蒸しパン〕一つしか食べられなかったのだ。厳しい運命は同じような境遇の人の上に降りかかる。

小芳は友玲を「お姉さん」と呼んでいた。友玲は河南省の田舎出身で、工場で勤務して25年になる。小芳より15歳年上。長身で、北方の人らしい丸くて広い顎をしている。二人はかつてフォックスコンの従業員で、何年も前に民間劇団の活動で知り合った。友玲は過去にも権利のためにたたかってきた。 2018年、「パワハラ」に直面した友玲は、労働組合を通した権利擁護の取り組み、社員食堂での不当な扱いを訴える活動、フォックスコンを解雇されたときに自作のチラシをまいて法定以上の解雇補償金をかちとったことなどだ。工場を解雇された後、会社が法定住宅積立金を過少にしか積み立ててこなかった問題を取り上げ、30人余りのフォックスコンの元同僚らといっしょに過少部分の支払いをかちとった。これは他の会社の工場にも波紋を呼び、労働者たちも彼女に倣って取り組みをはじめた。小芳が困難に直面した時、最初に助けを求めたのも友玲だった。この1年の間、二人は権利のために闘う中で、より一層親密になった。

病室のテーブルの上に、小さな貝殻の入った袋が乱雑に置かれていた。それは小芳が工場を辞め、比較的安定した仕事――ベビーシッターの仕事――に就いて初めて給料を受け取った夜に買ったものだった。一つは自分、もう一つは友玲へのプレゼントだ。友玲の袋は〔縁起の良い〕赤色で、小芳は彼女の勝利を祈った。しかし、心の奥底では、友玲がすぐに工場に「遺棄」されるのではないかと不安だった。「いつも同じ手順、同じ方法なのよ」と小芳は苦笑した。

友玲は今年42歳になり、あと8年で労働者としての定年を迎える〔中国では女性は50歳(管理職55歳)、男性60歳(管理職65歳)が定年だったが24年9月に法改正され、25年から15年かけて段階的に女性55歳(管理職58歳)、男性63歳に引き上げる〕。なので、以前ほど過激な行動はせず、何とかバランスを取り、仕事を維持したいと願っている。工場で募集があれば応じ、需要がなくなればそれに従う。小芳もこのような時期を経験したことがある。しかし、今の小芳はこう考えている。「時代は変わり、昔のやり方はもう通用しない」。「今日では、法的手段を用いても権利を守れないケースが多々ある」。小芳自身がその一例だ。小芳の観察によると、近年、フォーチュン500企業〔アメリカの経済誌『フォーチュン(Fortune)』が毎年発表する、全米または全世界の企業の売上高トップ500社〕を相手に仲裁や訴訟で勝利した労働者の数は減少傾向にある。世論では「権利擁護」という言葉を口にするだけで、様々な方面からの厳しい批判や警戒を受ける。労働者が無償の法的支援を申請するための条件はますます厳しくなっている。例えば深圳では、6ヶ月間の一人当たり可処分所得が3205元未満、または一人当たり総資産が2万元未満という条件がある。

夜の10時を回り、友玲は念願の診断書を受け取った。外に出ようとした時、スマホからDingTalkで診断書を送ることに集中していたため、あわや猛スピードで走ってきた電気自動車に轢かれそうになり、小芳が友玲をかばった形になった。友玲は轢かれそうになったことにも気が付かず、携帯電話の光で顔を青白く照らされながら、何人かの職制に電話をかけたが、誰もつながらなかった。青白く照らされた友玲の顔の笑みは冷たくなった。「医者に診察にいくように」という会社の指示によって、週末に入っていた休日出勤がキャンセルされたからだ〔手取りが減る〕。

翌朝6月7日、友玲は工場を訪れ、「従業員ケアセンター」の管理職に診断書を渡し、さらにキャンセルされた休日出勤を元に戻すよう要請した。すると管理職は友玲が職場の秩序を乱したと叱責し、さらに警察まで呼んだ。警察は管轄外だとしながらも、友玲に対して上司の指示に従って週末は休日出勤せずに休暇を取るよう促した。DingTalkからは友玲の夜勤勤務が無事にキャンセルできたという通知がきた。

「残業キャンセル」は、工場の機械化された労働に耐え、おカネのために働く労働者にとって、最も対抗が難しい攻撃だ。

その夜、星が散りばめられた夜空の青い背景の前に座っていたのは友玲だった。彼女はこう言った。「皆さん、こんにちは。明日はこの中継で、この25年間の仕事と人生についてお話ししたいと思います…」

◎なんとか死なずに成長したが

湖南省永州の農村で生まれた小芳は、子どもの頃から誰の言うことも聞かなかった。

1997年生まれの彼女は、田畑を自由に遊びまわって育った。「原人のように走り回って」、ほかの子どもたちを率いて田畑を転げ回ったり、魚を捕まえたり、ドジョウやヘビを捕まえたりした。彼女は農作業や家事も嫌いだった。草刈りをしている時は手に力が入らず、姉妹たちが畑作業で忙しくしてても、彼女は家の中で寝ていた。無理やり仕事を押し付けられようとすると、屋根に駆け上がり、「無理強いしないで。それ以上無理強いするなら、屋根から飛び降りる!」と脅しました。母親も彼女に対処する術がなかった。食事を取り上げたり、棒で叩いても彼女にいうことを聞かせることはできなかった。

しかし、フォックスコンを解雇されてからほぼ1ヶ月が経ったある夜、小芳は城中村〔都市部で開発が取り残された古い区画。地代が安いことから零細工場や農民工らの居住区にもなっている〕の6階建てビルの屋上からあわや飛び降りるところだった。2024年2月29日、小芳は初めてWeiboに自分の解雇闘争に関する記事を投稿した。それは検閲で削除されてしまったが、それまでに記事の閲覧数は20万回近くに達していた。その夜、警察から電話がかかってきてパニックに陥った。呼吸を整えようとビルの屋上に上がると、街頭警備用のドローンが頭上をホバリングしていた。ドローンは日常的にこの一帯を巡回しているのだが、このとき小芳は自分を尾行していると勘違いした。

「13人連続飛び降り事件」で有名なフォックスコンに2016年に初めて入社した小芳は、ビルから飛び降りようとする労働者たちの動画を集めていた。動画には、屋上に孤独な影が映っており、下の廊下には同僚たちが群がって、「飛び降りてみろよ、どうした、なんで飛び降りないんだ?」と叫んでいた。なぜ飛び降りようとしたのかなどの情報はいつもすぐに削除されてしまう。噂によると、工場が残業を禁止したからだといわれている。小芳は、飛び降りようとした者は警備員に押し倒され、警察署に連行され、何の補償もなく解雇されたということしか分からなかった。その夜、小芳はずっと屋上に留まっていたが、結局は飛び降りることはしなかった。彼女は思った。命を捨てることを考えたら何も怖くない、と。

しかし、この出来事は友玲を含む友人たちに衝撃を与えた。この件を友玲が知ったのは、ずっと後になってからだった。心を打ち砕かれたこの夜、小芳は警察のお世話になっただけでなく、彼女を引き取った友人たちからも「何か支えになるような習い事や職業訓練を見つけろ」とか「どこに行っても同じだよ」と説得されていた。そして、もう一つの不安で言い表せない困難があった。それは、お金がなかったことだ。小芳は勤勉で倹約家だったが、工場で12年間働いたが貯金はなかった。というのも、妹の学費、実家の新築、借金返済、妹の家の購入費用などのために、少しずつ故郷に仕送りをしてきたからだ。解雇された時、彼女は花唄〔ホァベイ:アリババの電子決済Alipayが提供する分割後払いサービス〕の返済があり、家賃の支払いさえままならなかった。しかし、彼女は誰からもお金を借りたくなかった。

「家父長制の家庭で育ちました…」と小芳は家族について語った。「家父長制」という言葉は、労働者支援NGOの仲間から聞いたものだ。

小芳は3人姉妹の次女。明るく自由な幼少期は10歳の時に終わった。母親が病気で急逝したのだ。「家族は突然崩壊したんです」。父親は石工で、母親が一家の大黒柱だったと回想する。母親は一人で7~8畝(約0.5ha)の土地を耕作できる、力持ちで有能な農村女性で、家事だけでなくしっかりとした地域づきあいもできた。一方、父親は「少しマザコンで、怠け者、独立した考えや自制心がない」人で、仕事よりもギャンブルを好んだという。

母親が亡くなったばかりの頃、小芳はそれほどショックを受けなかった。幼い頃から父親と寝食を共にし、山奥で暮らす「お父さんっ子」の少女だった。しかし、かつて母親が支えてきた人生の重荷と、農村女性の残酷なアイデンティティが、徐々に小芳を蝕んでいった。小芳の家の裏100~200メートルほどのところに、荒れ果てた山がある。急な斜面に小さな墓がいくつも並んでいる。墓場に立ち入って家に帰ると決まって殴られた。後に、その墓場は生まれたばかりの女児が捨てられる場所だということを知った。男児が女児よりも重んじられる農村部では、多くの女の子が生まれた途端に熱湯で殺されてそこに捨てられていた。小芳には幼い頃に亡くなった二人の姉妹がいた。一人は凍死、もう一人は偽の粉ミルクを食べて中毒死した。二人とも埋葬されることもなく敷物で包まれて山中に捨てられた。彼女たちはその後もお墓もなく、追悼されることもなかった。

長男が事故で亡くなった後、小芳の母は立て続けに5人の子どもを産んだが、全員女の子だった。小芳を含む3人の姉妹は生き残ったが、女児を生んだことは家族に歓迎されなかったという。父方の祖母は母親が赤ちゃんの世話をするのを手伝うことはなく、むしろ他の孫の家族を援助した。母は出産のたびに、まるで詫びるかのようにたくさんの食べ物を夫の実家に運んでいました。最後の子どもを出産したとき、近くに住んでいた専門の助産師は、また女の子だと聞いて、すぐには駆けつけてくれなかった。母は難産で大量出血した。彼女は村の診療所に送られ、医療スタッフが手で赤ちゃんを取り出した。母はこのために感染症になり、子宮を摘出した。こうして母の出産はここで止まったが、生涯にわたる女性科疾患を抱えることになった。体が少し回復した後、お金を節約するために薬の服用をやめ、定期検査にも行かなくなった。闘病生活6年がたったある日の朝、当時小学4年生だった小芳は、母親が起こしにくるのを待っていたが、一向に起こしに来ないので母親の寝床に行くと、苦痛で拳を握りしめたまま絶命している母親を発見した。

母を亡くした後、小芳は外出するといつも「野生児」とか「母なしっ子」と罵られ、馬鹿にされた。父親は娘たちに新しい服を買ってくれず、たまに春節の時期に他の家の子どもが着なくなった服をもらうことがあった。それは父親が徹夜で介護の見守りをしたときのお礼にもらったものだった。小芳が男の子と遊ぶと、父親は行儀が悪いと言って、「もっと自分の世界に閉じこもっておけ」と叱った。また、父親は小芳が人前で意見を言うことを禁じ、「女の子はおとなしく黙っておくものだ」と言った。農村部では男の子のいない家庭は様々な差別を受ける。そのうえ妻を早くに亡くした父親は、自分の力を誇示しようとして新しい家を建てた。それ以来、小芳の家族は借金に苦しむことになった。

当時、姉は中学生で寮生活、妹はまだ幼かったため、「母親の仕事」である家事は小芳に押し付けられ、「嫌でもやらざるを得なかった」。畑の仕事と管理は祖父に任せていた。貧しい一家は新たな労働力を切実に必要としていた。中学3年生の頃、父親は小芳の耳元でよくこう囁いた。「隣の子はまだ14歳なのに、もう4000元か5000元も稼いでいる。お前も働いて金を稼げ」。小芳は「幾つだと思ってるの。まだ学校に通ってるのよ」と反論した。父親は「女の子がそんなに勉強する意味なんてあるのか。いずれ結婚するんだから」といった。姉は早く結婚してこの状況から抜け出す意志を示していたため頼りにならなかった。父親は形を変えた暴力を常とした。小芳が口答えすると、叱られて閉じ込められたりした。

小芳が勉強を続けたいという気持ちは、母親から芽生えたものだ。母親は教育を非常に重視していた。幼い頃、父親は数百元の費用を節約するため幼稚園には通わせてもらえなかった。小学校に入学した時は基礎が弱かったため進級できなかった。母親は小学校3年生の学歴しかなかったが、毎晩、小芳に読み書きを教えてくれた。「当時、私はとてもいたずらで、勉強したがりませんでした。それで母は私を叩きながら毎日一緒に勉強をおしえてくれました」。この経験が小芳の学習意識を育んだ。「母がいなければ、中学校でも勉強できなかったかもしれません」。

中学校に進学した年、小芳は県内のより良い環境の私立中学校に進学することもできた。隣人の同級生と一緒にその学校へ進学する約束をした。しかし、父親は費用を抑えるために「私立は高すぎる」と言ってその学校への入学を取りやめました。
小芳は父親に逆らい、怒りのあまり父親の首にナイフを突きつけた。彼女が父親を怖がらせた初めての出来事だった。しかし、抵抗は結局無駄だった。中学3年生の夏休み、父親は彼女に無断で広東省の工場で働かせる手はずを整えた。小芳はそれを拒否し、ほぼ1週間のハンガーストライキを続けた。故郷の親戚は電話で説得し、姉はひざまずいて「この家に生まれたことが悪いのよ…」と懇願した。9月1日、すでに新学期が始まっていた。あの同級生は小芳の連絡先を探し出し連絡し、どのクラスに入ったのか尋ねると、彼女はこう答えた。「いま東莞で働いているの」。

彼女はハンドバッグ工場に送られ、15歳の児童労働者となった。小芳は針と糸を操り、1日12時間、様々な「粗悪」なバッグを次々と製造した。化粧ポーチ、ショルダーバッグ、ポーチバッグ、トラベルバッグ、バックパックなど、十数種類ものバッグだ。数百、数千ものバッグの型紙を目にし、3年間その製造ラインで生活を送った。勉強への執着は徐々に薄れ、生活はより切実なものへと変わっていった。新しい生活に適応すること、つまり、規則を守り、経営者の言うことを聞き、同僚と仲良くし、「温情搾取」のなかでも自分を失わないことが必要だった。小芳は現実に目を向け、勉強への情熱を妹に託した。「家族に大学生がいなきゃ」と小芳は言い、妹の5年制短期大学への学費を負担することにした。

勉強への希望が再び燃え上がった瞬間があった。姉が専門学校〔大専〕に通っていた頃、小芳は姉から「社会人入学もできる」と聞き、学校に連絡を取った。小芳は勇気を振り絞り、父親に「働くのは本当に疲れる。学校に戻りたい」と告げた。しかし、父親はそれを拒否し、「そんな考えは今すぐ捨てろ」と言った。そして矢継ぎ早にお金に関する質問が続いた。「おまえが学校に通っているあいだ妹はどうするんだ。学校に通うカネはどうするんだ。新築した家はどうなる。まだ内装費用もかかるぞ。姉は嫁いでしまったので、おまえが稼がないと家はどうなるんだ」と。

冷や水を浴びせられた後、「私は完全に変わりました」と小芳は言う。彼女は父親の期待通りの生活を送ろうとし始めた。仕事と家の往復だけ、人とあまり接触せず、時間があるときは寮で小説を読み、家に仕送りをするようにした。2017年、演劇サークルで初めて小芳に出会った時のことを、友玲は回想する。彼女は寡黙で、長時間話すと顔を赤らめ、支離滅裂な言葉遣いをすることさえあった。「とても変わった女性だった」。当時、友玲は演劇の稽古場で主役を演じており、彼女が物語を語ると、皆が夢中になった。同時に、彼女は労働者向けのノンフィクション作品も執筆していた。

小芳は後にこう説明した。「人とほとんどコミュニケーションをとらず、自分の世界に閉じこもっていると、劣等感を打破するのは難しい。あの頃は、みんな優秀に見えて、自分は人より劣っていて、他の人とは不釣り合いだと感じていた」。しかし後日、労働NGOでの交流を通じて、小芳の閉ざされた心は開かれていった。「彼らは私にこう言いました。自分の言うことをくだらないと思う必要はないよ。自分の考えていることをそのまま表現すればいい。嬉しい時も、辛い時も、怒っている時も、何でも声に出していいんだよと」。小芳はNGOでボランティアすることになり、広報活動、合唱、演劇、弁論術のクラスに参加した。                   

しかし、その年、フォックスコンでの最初の業績評価で、小芳は「C」評価だった。工場の他の全員が「B」だったのに。小芳はトイレに駆け込み、「努力と報酬の開きが大きすぎる」と泣き崩れた。彼女は、このノルマは職制や管理職とコネのある人だけが得をするものだと推測した。だが、そのことを課長に問いただす勇気がなく、恥ずかしさのなかで辞職する道を選んだ。
工場を出たのち、小芳は深圳の姉夫婦のアパートに転がり込んだ。3ヶ月後、収入も行き場もなく、彼女はフォックスコンに戻ることになった。

(つづく)

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